羽生善治棋王(当時)がB級1組昇級を決めたとき

将棋マガジン1992年5月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。

B級1組とB級2組順位戦(ラス前)があった日のこと。

近代将棋1992年5月号より、撮影は炬口勝弘さん。

2月21日

午後11時

 特別対局室の模様を伝えてないが、ここでは、羽生-鈴木(輝)戦と加藤(一)-青野戦が行われていた。前者は、羽生が勝てば昇級決定だ。モニターテレビを見ながらの評判は、羽生よし、鈴木よし、とさまざまだったが、突然終わった。

 11図はどちらともいえぬ形勢だが、辛抱をかさねていた羽生が、人が変わったような手を指した。

11図以下の指し手
▲2四飛△8七歩▲9八玉△2四銀▲2二歩成△9六飛(12図)

 どこかへ飛車が逃げるのが普通。それを▲2四飛と出たのは、やけになったわけではない。

 羽生には、理屈抜きで、なにか感じるものがあったのだ。こう指せば、きっと相手は誤るにちがいない、などと。

 そんな低レベルのカンでもないかも知れないが、もし半分でも当たっているとすれば、羽生の勝負度胸は恐ろしいくらいのものである。

 すかさず△8七歩を一本利かしたのは鈴木の冴え。それはよかったが△2四銀と飛車を取って、△9六飛が大錯覚だったらしい。▲9七金と使わせるつもりが、▲9七桂で間に合わされ、どうしても先手玉は詰まない。

 正解は△2四銀で△5三金打ち、と受ける手。羽生は「それなら全然だめ、私の負けです」とあっさり言ったそうだ。

 こうして羽生は名人位へ一歩近づいた。

午前1時

 控え室に、勝浦、青野、土佐、田中が残っている。田中以外は、大きな星を落とした面々だ。なんとなく帰りづらいのだろうが、それにしてもみんな沈んでいる。勝たねばならぬ最終戦のことでも考えているのだろうか。

「みんな寅ちゃんに代打を頼んだら」とふざけてみたが、だれもクスリともしない。

 やがて土佐が負けた将棋を並べはじめた。そうしているうちに口数も多くなり、やがて局面は11図に変わった。△2四銀で△5三金打ちなら、本当に鈴木が勝てたか、の話になり、いろいろやってみて、まだ難しい、ということになった。ひまつぶしの研究みたいなものだから、正しいかどうかは判らない。

 疲れはて、だれかが「羽生君も感想では花を持たせたか」と笑い、ようやく帰ることになった。すでに朝4時になろうとしていた。

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将棋世界1992年5月号、羽生善治棋王(当時)の昇級者喜びの声(B2→B1)「新鮮な気持ち」より。

 B級2組2年目の私は今年こそ昇級をと思い開幕を迎えました。しかし、初戦で東六段に敗れてしまい黒星スタート、今年も駄目かと弱気になりました。

 前期もいきなり2連敗して昇級絶望となったことも思い出し、順位戦は厳しいなと実感しました。

 けれども、今考えるとここで負けて気が引き締まり、一番も負けられないというプレッシャーが良い結果につながったようです。

 そして、レース展開に恵まれてもう一番負けても良いという余裕が出来たのも大きかったです。

 前期連敗後頑張ったのがこんな形で今年役に立ったことを考えると順位戦も結局、一年一年の積み重ねなのですね。

 もっとも今期は苦しい将棋が多く、何度あの絶望的な気分になったか解りません。

 苦しい将棋を勝った時は”勝った”ではなく”負けなくて済んだ”という気持ちです。

 6月からはいよいよB級1組です。

 今までのクラスは外から見ているのと、在籍しているのとでは全く異なる印象なので、きっとB1もそうなのでしょう。

 不安と希望が半々です。

 この新鮮な気持ちを大切にしていきたいです。

 B1は総当りなので抽選うんぬんがなく、局数も多いので今から楽しみにしています。

 最後になりましたが、応援してくれたファンの人達にお礼を言いたいと思います。”ありがとう”

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羽生善治棋王(当時)は、翌期のB級1組では11勝1敗の1位でA級昇級。

更にその翌期のA級では7勝2敗で、谷川浩司王将(当時)とのプレーオフに勝ち、名人戦の挑戦者となる。

そして1994年6月7日、名人戦では米長邦雄名人(当時)に4勝2敗で勝って名人位を獲得する。

河口俊彦六段(当時)のこの文章が書かれてから わずか2年3ヵ月後のこと。

書いた河口六段も、ここから最短で名人位に就くとは思っていなかったろうし、そもそもいつ頃に名人になるかの具体的な予想もしていなかったと思う。

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「こうして羽生は名人位へ一歩近づいた」

リアルタイムで読んでいれば、この言葉にあまりインパクトは感じなかったと思うが、今になって読んでみると、非常に重みを持った感動的な言葉となっている。

羽生九段のこの後の猛烈な活躍が、この言葉に魂を与えたと言って良いだろう。