明日から名人戦。
羽生善治名人と森内俊之九段は小学生時代以来のライバルだ。
今日と明日は、羽生善治名人の子供の頃のこと、そして、森内少年との出会いについて。
近代将棋2006年5月号付録「羽生善治少年の全記録(4級~初段編)」より。
羽生名人が少年時代に通い続けた八王子将棋クラブの八木下征男席主の談話。
1978年8月2日(*羽生名人7歳)
羽生善治少年が八王子将棋クラブへ初めて訪れたのは、1978年8月2日に行われた第1回夏休み小中学生将棋大会でした。
道場を始めて1年目ということで、記念に初めて子ども将棋大会を開催することにしました。将棋雑誌とショッパー(地域のフリーペーパー)に将棋大会の告知を掲載と、八王子の小中学校70数校に案内状を送りました。市内はもとより、都内全域、千葉県、埼玉県から60名の参加者が集まり、大盛況になりました。
その参加者の中に羽生君がお母さんに連れられてやってきたのです。
(中略)
羽生君の成績は残念ながら1勝2敗の予選敗退でした。
(中略)
1978年10月28日(*羽生名人8歳)
第1回夏休み小中学生将棋大会の後、羽生君が道場に来たのは3ヵ月後の1978年10月28日でした。
おとなしい性格の羽生君は、お母さんに連れられて背中を押されるように道場に入ってきました。そのときの羽生君は、駒を動かせる程度の初心者でした。そこで道場に来ていた4級の小学生と6枚落ちを指してもらいました。すると、かなりいい勝負をしました。
当時、道場の一番下位の棋力は7級でしたが、羽生君には7級を与えずに、あえて14級をさしあげました。そして勝敗に関係なく、様子を見て昇級を認定しました。
これは段々と棋力を上げてあげれば、羽生君の励みになると考えたからです。
帰り際に「今日は級が一つ上がったよ」と、お母さんに話している声が何度か聞かれました。
それから羽生君は土曜日毎に道場へ来るようになりました。ただし、しばらくの期間は毎週僅か1時間~1時間半だけだったです。これはご両親が買い物をしている時間でした。しかしこの僅かな時間の割に羽生君が強くなるのは早かった。
(中略)
道場に通うようになってから3ヵ月後、羽生君は6級になりました。
ただ6級と言っても、同じ6級でも他の人と比べると、おそろしく筋がよく、早見えでした。このときこの子は将来相当強くなるだろうと確信しました。
(中略)
1979年5月3日~9月8日
羽生君の成績を詳細に残してあるのが、4級時代からです。羽生君はこの時代に素晴らしい記録を残しました。
1979年の夏休みに日本橋東急デパートで行われた「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」に出場して、見事準優勝に輝いたのです。このときの優勝者は、先崎学君(現八段)でした。羽生君とは同級生です。
この頃、羽生君のことで一つ感心したことがあります。それは土曜日に道場に来ると、前の週のテレビ将棋の棋譜がすっかり頭に入っていて、それを一生懸命私に解説してくれました。
ここの局面ではどうだった、あの局面ではどうだったと将棋盤を使わずに説明してくれました。それがまたおそろしく早口なので、聞いている私は訳がわからなくなって、適当に相槌を打ってごまかしていることがたびたびありました。そんな話をしているときの羽生君の表情は実に楽しそうでした。
(中略)
1979年9月8日~11月17日(*羽生名人9歳)
羽生君は対局に勝っても負けても淡々としていました。昇級に影響する一番に負けたときに、「惜しかったね」と声を掛けると、「いいんだよ。また勝てばいいんだから」とさらりと言ってのけます。
子どもにはめずらしく、目先の勝敗にはとらわれないスケールの大きなところがありました。そしてどんどん強くなっていきます。始めてから1年1ヵ月で初段に昇段しました。
つづく
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八木下征男さんと永井英明さんの対談では、次のように語られている。
- 羽生少年は、自分からドアを開けて入ってくるという感じではなく、お母さんに押されて遠慮がちに入ってくるようなタイプだった。
- 道場に来ている子供たちが集まって話をしていても、そとから眺めて、にこにこしていることが多かった。
- 常連の子供たちは羽生少年よりも年上が多かった。子供たちは名前を呼び捨てにするのが普通だったが、羽生少年にはみんな「羽生くん」と呼んでいた。すごい子だということで、みんなに一目置かれていた。
- 羽生家から八王子駅前(道場)までバスで40分かかった。毎週末、八王子の町にお父さんが車を運転して買い物に出かけてきていた。買い物をする間、羽生少年を道場に預けていた形になる。
- そういうわけで道場の滞在時間は1時間~1時間半。あとは自宅で研究。道場へ来て、研究の成果を出すために、懸命に対局した。
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「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」というタイトルだけで見ると、日本一の”よい子”を決めるコンテストのように思えてしまう。
このときの優勝者が、最も”よい子”らしくない先崎学少年だったというのも興味深い。