花村元司九段-加藤一二三九段戦での「ポン!」

花村元司九段-加藤一二三九段戦でのアクシデントなど。

近代将棋1999年1月号、泉正樹七段の「21世紀の初段をめざせ」より。

 すさみきった麻雀生活は飽きることがなかったが、棋士の先生方から「麻雀強いらしいな、だけどそんなことばっかりやってたら四段になれんぞ、少しは勉強しろよ」。温かい叱咤を受けることがしばしばあった。

雀荘通いは相変わらず続いたが、実はその分、記録係はよくやった。練習で将棋を指すことは皆無に等しかったが、戦場の空気は人一倍吸っている自負はあった。

20年も前は愛煙家の先生が半分以上だったので、ひどい時は部屋の中が煙幕状態。昼休みが終わり、ウトウトし始めると途端にプ~ンと鼻の中に”イガラっぽい”&甘い薫り。すでにヘビースモーカーだった野獣少年は「ウン、このドギツイ香りはショートピースだ。きっと丸田先生が吸ってるんだな」。そんな予想をして目をさますが、「ありゃ、いけネェ間違えた、花村先生だったか」。外れることが多々あった。

それにしても、あの丸切りのピースの葉っぱを口につけないで吸う丸田先生の芸にはみとれた。やはり”小太刀の名手”よろしく細かいさばきは芸術品。達人の風格を感じずにはいられなかった。

本誌「初中級一口講座」であなじみの五十嵐先生もピース派だったが、時たま口についた葉っぱを取る仕草をやっていたからカッコよさは丸田先生に及ばなかった。

花村先生に至っては、たえず葉っぱが口についていても気にしてないようで、これぞ本物のタバコ吸いと思わせるのだが、お茶といっしょに飲んでしまい、むせて葉っぱが出てきたなんてことがひんぱんにあったから非常に愛嬌のある先生だった。将棋も大ポカで頭をかかえたかと思うと、直後驚愕の鬼手や奇手で敵を青白くさせたりと、とにかく記録係を楽しませてくれたのでした。

親しかった植山さん(六段)や依田さん(五段)その他数人と吸い方の研究をしたが、葉っぱを口につけないで吸える人は一人もいなかった。そんな訳で悪童連中も丸切りだけは年季と鍛え画必要と断念するしかなく、代わりにショートホープやハイライトが幅をきかせていたようだ。

必然的に遅刻も多く奨励会を不戦敗する失態もあり”奨励会ブラックリスト”の上位に名を連ねていた。

花村-加藤(一二三)戦の時にはとんでもない冷や汗ものの失態もあった。初手から20手ぐらいが1時間程で進んだが、突如加藤先生の手がピタッと止まり午前早々長考に入るポーズ。眠気と長考は相互関係にあるので20分もすると襲ってきたが、目をパチクリさせて必死にこらえていた。

しかし、30分を過ぎると遂に睡魔に負けてしまい安息のねむりについてしまった。

そしてその数分の後、加藤先生お得意の高い駒音、「ビシッ!」。瞬間私は何を想ったか「ポン!」という奇声を発していた。

これには棋界の元祖ギャンブラーともいうべき”東海の鬼”もツルツルの額をなでなでしながら「しょんないナ~」独特の口ぐせで注意をうながすのであった。

さすがに、駒音に対して麻雀の食いをやらかしたのは後にも先にもこれっきりだが、猛進君の頭の中はパイでギッシリ、駒音がパイ音にきこえるのも無理からぬ所だったのです。

こういうように、記録中にいねむりやタバコのケムリに意識をそそいだりと将棋そっちのけの怠慢ぶりが身に付いていたのです。

徹マンを止めず、つらいから記録を代わってもらうこともしばしばあった。だいたいそういうときは三村さん(二段で退会)に泣きを入れた。

三村さんは連盟から徒歩3分のところに住んでいたので朝9時に電話してもゆうゆう間に合う。奨励会員の間では格好のピンチヒッターであった。

三村さんは、とにかく酒好きの人で、一人でも必ず連盟近くのスナックで毎晩のように飲んでいた。当然、量もけっこう飲むのですが、そのわりにあまり酔っ払ったところは見たことがない。時計の長い方の針が一回りもすると訳が解らなくなってしまう野獣とはエライ違いだ。ただ、このあいだ(といっても2年位前)飲んだ時には「おれも随分弱くなった」と心底嘆いていたが…。

2度3度と気軽に記録を代わってもらっていたが、その次の時だったか電話すると、「おれはいいけどさ、マサキおまえ自分のことだろ。少しは自分で責任もてよ。おれみたいな人間が言うのもおかしいけどさ」といって結局その時も代わってくれたのです。

このときを境に記録前日には徹夜はさけるようになり、遅刻ぐせも徐々に直っていった。

棋士になり18年経つが、対局での遅刻は2度だけなので全く人間というのは変われるものですネ。言いたくないことを伝えてくれた三村さんに感謝しなくてはいけない。また飲みましょう。記憶に残る程度にですけどネ…。

二段でくすぶり続けて1年以上経った頃だったろうか。突然天狗道場がツブれた。正直いってこれは我が人生にとって幸運の一つであった。麻雀をやる回数が激減する訳だからで、本腰を入れて将棋の勉強をするきっかけとなったのは紛れもない事実。半年後にはようやく三段に、そしてまた半年後には遂に四段に昇段した。運がよかったの一語に尽きるが、環境を変えることの大切さをこのときに知ったのでした。

ここまでが麻雀地獄の第一章ですが、人間は同じことを繰り返す生き物といわれます。

この後再び、乱れに乱れた麻雀生活を展開しますが、今はあまり思い出したくないので打ち切り、笑って話せるような心境になったら書いてみたいと思います。

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ここに出てくる三村さんは、現在の三村亨指導棋士四段

三村亨指導棋士四段は子供指導にも定評があり、教室が開催されている土曜日には将棋会館でよくお見かけすることがある。

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河口俊彦七段の著書には、奨励会時代「西の谷川、東の泉」と言われていた頃があったと書かれている。

泉七段は、この文章を書いた翌年くらいに、当時の奥菜恵さんにそっくりな美人女医と恋愛結婚することになる。

泉七段の魅力、どのようなきっかけで恋愛結婚したか、などは、以下の過去のブログ記事をご覧ください。

野獣猛進流(1)

野獣猛進流(2)

野獣猛進流(番外編)

泉正樹七段の「美女と野獣の会」