絶対に墜落しない飛行機の話。
1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」より。
自分ではなぜだかわからないが、はじめて乗ったときから飛行機というものが怖くて仕方がない。
もう五十回は乗ったろうか。二十歳としては多いほうだろう。幼稚園のときに北海道へ引っ越すときに乗ったのがはじめてらしいが、記憶はまったくない。したがって実際の処女体験は、十七のとき、東京-福岡便が最初だった。
世の中にこんなおそろしいものがあるかと思った。それから”やむを得ず”仕事や旅行などで乗るが、飛行機恐怖症というものは慣れで解決するものではないようで、回数を重ねても、症状は良化するどころか、逆に悪化の一途をたどってゆく。
(中略)
飛行機嫌いで得をすることは、”同士”を相手に話が弾むことだけである。先輩の森けい二九段も、音に聞こえた飛行機嫌いで、「海の上を飛んでいる間は、俺は泳げるから安心だが、陸の上を飛んでいるときは怖くて仕方がない」というのが口癖である。また、「遊びで乗るときは、帰りに落ちるのは遊んだあとだから仕方がないが、往きの、遊ぶ前の飛行機では絶対に死にたくない」という。なんとなくわかるような気もする。
巷間よくいわれることだが、この人が乗っているだけで安心というような運の強そうな人や、この人とならば死んでも仕方がないというような人が一緒だとずいぶん気も紛れるものである。わが将棋界でいうと、大山康晴十五世名人や羽生善治棋王などは、いかにも運が強そうである。
(中略)
一度だけ、大山名人と同乗したことがある。大先生は、席に着いて、シートベルトをしめるなり、いきなり寝てしまった。席に座ってものの一分もしないうちに寝息が聞こえてくる。そしてそのまま、着陸するまで、一回も目を開けなかった。僕は、隣で震えながら、崇高なものでも見るように大先生を見ていた。
大山名人とは一度きりよりないが、同い年の羽生とは仕事や旅行などで一緒になることが多い。羽生と二人で山形へ行ったとき、異常な悪天候のなかを飛び、木の葉のように揺れたことがあるのが、羽生と一緒に死ぬんならまあ仕方がないと思って、四十五分、ジェットコースターのような機中でうずくまっていたことがある。羽生が隣で平然としていると、なぜか安心なのである。
僕は一人で飛行機に乗ったことがない。いつもだれかと一緒で、ウイスキーのポケットびんを小脇にかかえて飲みながらである。一人でモスクワに行く用事があれば、きっと僕はシベリア鉄道に乗るだろう。
羽生のように、いるだけで気が和むという人間は、まことに貴重なものなのだが、このことを専門誌「将棋世界」の編集者(彼もそうとうな飛行機嫌いだ)にいったところ、こう反撃された。
「いや、死ぬんなら一人で死ぬべきだ。君が一人で死ねば『将棋世界』は先崎学追悼号として十ページは割くが、羽生君と一緒に死ねばその号は羽生善治追悼号になって、君のページはよくても二ページだ。死ぬなら一人で死んだほうが絶対にいいね」
ああ! 現代では死に方も勝負のうち、なのだ。
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飛行機嫌いな将棋世界の編集者は、大崎善生さんである可能性が高い。
ところで、「名人と一緒の飛行機なら落ちない」という考え方は、かなり前にも存在している。
棋士が持つ共通感覚かもしれない。
将棋世界1971年11月号、故・能智映さんの「予想通りの白熱戦 第十二期王位戦七番勝負」より。
以前、この王位戦は、北海道、名古屋、九州・・・と全国を転戦するのが特徴の一つであったが、第八期以降、事情でそれを中止していた。しかし、大の旅行好きの大山王位が「せっかく」地方新聞社(北海道・中日・西日本新聞)が主催するのなら、地元でやらなくては-」との要望を出し、実に五年ぶりに九州で対局することが決まったとたんに、北海道で東亜国内航空機の墜落事故が起こってしまった。そのことは、第一局の昼食休憩の時など話題となったのだが、「まあ、二度とは起こらんでしょう」と話し合い、飛行機の切符を買ったところが今度は岩手ででの全日空機と自衛隊機の衝突事故が発生してしまった。
さあ大変、今秋結婚式を挙げる中原十段は本誌九月号の石垣純二氏との対談で「中原さんは飛行機事故に気をつけた方がいい」と暗示をかけられたこともあって「まだ死にたくないですね」と拒絶反応。そればかりか、飛行機には乗りなれているはずの王位までもが「二度あることは三度ある。いつかの時もそうだったですよね」と逃げ腰になってしまった。
ただ立ち会いの広津八段だけは「これだけ運の強い人が二人も乗るのだから」と大船に乗った格好だったが、もし落ちたら、ことは大変である。しかし、八方手をつくしたにもかかわらず、とうとう汽車の切符は取れず”決死の博多行き”となった。
機中でも王位は「もし落ちたら、それみろと笑われるよ」と、一行をおどかす。これに答えて広津八段は「落ちたら、みんな喜ぶよ。だってタイトルがみんな空き家になるもの」と穏やかではない冗談をいう。-主催者側として、このわずかな時間がなんと長く感じられたことか。
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落ちない飛行機とは少し異なるが、思い出すのが次の文章。
倉本聰さんのエッセイ集「さらば、テレビジョン」より。
飛行機は、重なった雲の間をガタガタ揺れながら飛んでいた。それは時にはデコボコ道を走るオンボロ車のように、見えない路面のデコボコにバウンドし、信じられないきしみ方をしながら突然フワッと下がったりした。
隣の席の大原麗子嬢が僕の耳元でささやいた。
「怖いの?」
「・・・・・・」
飛行機は長崎へ向けて飛んでいた。一昨年の秋の終わり。NHK「勝海舟」の長崎ロケへ行く所だった。
「怖いンでしょう先生、真っ青だもン」
大原嬢がまたささやいた。
僕はかねてから信じている。飛行機を全く怖がらない人間、飛行機に乗って、死ということを一度も考えたことのない人間は、およそデリカシーの欠落した部族である。
(中略)
「本当は私もちょっと怖いの」
大原嬢が再度ささやいた。
「だけど先生心配しないで、私は絶対こういうことでは死なない運命にあるンですって。だからもしものことがあってもレイコ一人はこの中で助かるの。私先生のこと守ってあげる。レイコは絶対助かるンだから、従って先生も助かるわけよ。つまり私たち二人だけが唯一の生存者ってことになるわけ」
ハハハハ-必死に笑ってみせようとしたが、音声が何となくひきつっていた。斜め前の席に渡哲也氏や藤岡弘氏の顔が見え、あいつらはダメなのかとぼんやり思った。
「救出されたら記者会見やろうね」
大原嬢が楽し気にささやいた。
それからフッと僕の顔を見、真顔になってつけ加えたものである。
「私記者たちにいっちゃうからね。ダメかと何度も絶望しましたけど、その都度先生が守って下すったので、こうして生きてお目にかかれましたって。先生変に照れたりしないで、そうですって顔してウソつき通すのよ」
この夏、僕は彼女と一緒に、再び飛行機で空を飛んでいた。千歳空港から東京へ。彼女は手足のしびれる奇病にかかり、前夜札幌ですべての仕事から下りる決心をしたところだった。彼女はしゃべらず涙ぐんでいた。僕もマネージャー氏も話しかける言葉を失っていた。
飛行機が揺れて、彼女は僕を見た。
小さな声で彼女がいった。
「怖がらないで大丈夫よ。レイコが守ってあげるからネ」
-彼女の病気は快方に向かっている。僕はまた彼女と飛行機に乗りたい。
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私は故・大原麗子さんのファンというわけではなかったが、この文章を読むと、大原麗子ファンにならない理由が見つからなくなってしまう。
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