1998年、佐藤康光八段名人挑戦権獲得前夜

人間万事塞翁が馬か、エネルギー保存の法則か。

将棋世界1998年6月号、先崎学六段の「先崎学の気楽にいこう」より。

 三月中旬に研究会の後、お昼からゲーム大会があると聞きつけて、島さんの家に遊びに行った。

 着くと、棋士が八人。皆順位戦が終わった直後で、それぞれにのんびりしている。飯を食って、お茶をのんで、また将棋を指す気にならないのだろう。そういう季節である。

 その中で、一人背筋が伸びてシャキっとしているのが佐藤康光君。なんでも明日は名人戦のプレーオフだそうな。「今日は早目に帰ります」

 開始前のひととき、島さんの淹れてくれた紅茶を飲んでいると、ふと棚の上に置いてある『黒ひげ危機一髪ゲーム』が目にとまった。誰からともなく声が出た。「そうだ、食後のデザートに、ちょっとあれをやりましょう」

 短剣を樽に突き刺していって、中の黒ひげをポーンと飛ばした人の負け。子供用のゲームである。当然、小額を賭ける。

 メンバーは佐藤、中田宏、中田功、鈴木大、先崎の5人。

 おそるおそる刺す者、きっぱりすぐ刺す者、黒ひげの背中から刺すのが必勝法という島さんの珍説を信用する者、様々であるが、なんとなく、おずおず刺す奴の方が飛びそうな気がするから不思議である。

 穴の数は三十。当たりは一つ。そんなに簡単に飛ぶわけがない。初回の二周目。皆が期待する佐藤君の番である。各人心の中で声援を送る。コールは飛ばせ、飛ばせ。

「俺、こういうの弱いんだとなあ」モテ光ぼやきが入る。息を吐いて深く吸って、おずおずそーっと差し込む。

 すっぽーん。

「あーーーー」

 皆が期待する瞬間にきっちり応える。まさにスターである。

 頭から湯気が出ている佐藤君をなんとかなだめてもう一回。

 負けた人からである。遠くから小倉が「これでまた飛んだりして」という。

 第一手、佐藤康光。そーっ。今度は悲鳴の方が先に感じた。

 すっぽーん。

「あーーあーー、ぎゃーあーヒドイゲームだあぁぁぁぁ」

 笑い転げる我々。自分の至らなさを痛感しちゃうモテ光君。

 三回目、今度は熱戦になった。残り穴が十個を切る。さすがに皆慎重に刺してゆく。まあ慎重になっても何の意味もないんだけれど。

 さあその時はやって来た。スター登場。場がシーンとなる。握り拳をつくる者もいる。

 スターが能書きをたれた。「こわがるからいけないんです。五つも六つもあって当たるわけがない。だいたいそんなに何回も負けるわけがありま、あーーーー」

「もういやだ、はいはい私が払えばいいんでしょ。好きにしてください」

 モテ光君、払い光君になって、すっかりふて光君になっちゃった。

「惜しかったね、飛ばした人が勝ちにすれば良かったね」

「先崎の同情なんて聞きたくない。どうせそうしたら自分が飛ばすと思っているくせに」

 もういやだという佐藤君をなだめてゲーム続行。四回連続こそならなかったものの出だしの三連敗は大きく佐藤君の一人負け。「今日はもう帰ります。ああヒドイ目にあった」

 次の日、プレーオフをNHKの放送で見る。終盤で難しい局面もあったものの、らしい将棋で快勝である。やはり前日に悪い膿を出したのが良かったのだ。名人戦でも前夜祭の後に黒ひげゲームをやれば佐藤名人誕生は間違いないだろう。

 ゲームに懸かっていたお金は僅かコーヒー代程度である。これで名人戦を釣れれば、海老で鯛を釣るどころのはなしではない。五人でやって三連敗する確率は1/125。それを出してしまうことに、奇妙な勢いを感じた。締切の都合でと途中経過は全く分からないままであるが、黒ひげをあれだけ飛ばせば、谷川名人もついでに飛ばしてしまうはずである。

 将棋以外のゲームで負けまくって、将棋だけ勝ちまくるというのは、棋士の一つの理想像である。麻雀はじめゲームで負けまくり、将棋を勝ちまくる佐藤康光流がこの名人戦で花を咲かすか、どうか。

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この時の名人戦挑戦プレーオフの相手は羽生善治四冠。

そして、この年の名人戦で、佐藤康光八段は谷川浩司名人から名人位を奪取する。

先崎八段の予言が当たったことになる。

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