有りそうだけれども無いもの。
北海道の梅雨、赤坂の映画館、六本木のデパート、銀座の幽霊話。
それに近いものとして、大崎善生さんによる観戦記がある。
大崎善生さんによる貴重な観戦記。
将棋マガジン1990年2月号、大崎善生さんの竜王戦第5局観戦記(島朗竜王-羽生善治六段)「羽生善治、猛追。」より。
「負けたあとに、この風景を見るのは、つらいものがある」。島竜王の声が、ふと聞こえてきた。島、羽生六段の両対局者、立会人の佐瀬八段、木村(徳)八段、NHK解説役の谷川名人、神吉五段ら、竜王戦第5局を終えた、総勢20名の一行は、飛騨高山線下呂駅のプラットホームに立ち、帰りの名古屋行きの電車を待っていた。
確かに、都会派の島じゃなくたって、うっすらと雪をたたえた山あいの、温泉町のホームは物悲しい。それに、皆、それぞれに疲れている。
「どうせ死ぬなら、都会がいい。淋しくなくて。ここだったら本当に死にたくなる」。そんな声が聞こえてくる。もちろん、死ぬ生きるは別にして、この大勝負の結末は都会の喧騒の中で終わらせたい、と島が思っていたとしても不思議じゃない。勝てば勝ったで、大騒ぎができるし、負ければそれでも、何とか都会の騒々しさが、気を紛らわしてくれるかも知れない。
この時点で、シリーズは2勝2敗1持将棋、第6局での決着はなくなった。第7局は千葉市、そして第8局は東京港区芝が予定されている。
シリーズは、ここにきて大混戦の様相を呈している。芝決戦、そんな意識が島の頭に芽生えているようにも思えた―。
(中略)
羽生は第4局に続き、三度目の和服を着用した。思っていた程、気になりませんでしたと、天童で語っていた。十九歳の和服姿は実に凛として清々しい。
将棋は今期竜王戦で、初めて矢倉を離れ、「一度はやってみたかった」と羽生が語っていた、横歩取りとなった。
22分の考慮を払い▲9六歩。そしてさらに36分考えて▲1六歩。
「端歩は心の余裕」とは、島が時々言う言葉だが、9六はともかく1六の方は、いくら何でも余裕の持ちすぎだったか。
(中略)
二日目、朝。島の封じ手は▲7八銀。意見が分かれたのだが、この手は谷川が予想した手だった。
羽生の目がしょぼしょぼしている。そして、何度か欠伸。後で聞いた所、本当に眠たくて仕方がなかったそう。
一方、島は、いきなりハサミを取り出して、自分の背広にあてる。仕たて糸の取り残しに気づいたそう。本日のハサミは、封じ手を開封するだけでなく、意外な所で活躍した。
そんな島を、しょぼしょぼした目で羽生が見てる。
モニターに映しだされた二人に、控え室は大笑い。
(中略)
「僕は面食いなんですが」と、美しい駒組みの形にこだわるタイプと語っていた島の陣形が、ひどいことになっている。序盤に出来たちょっとした小じわが、もうどんな厚化粧でも隠せないほどになってしまっている。
(中略)
▲5九玉には控え室も驚いた。
「ウロウロしているだけ。住所不定という感じ」と感想戦で島は面白いことをいう。
下手に一所にジッとしていると、絶好の攻撃目標になりそうなので、フラフラと住所不定の玉にしてしまえば、摑まるまいという訳か。
さすがの羽生も王様の家出に面食らったか、次の一手に34分も考えている。いっそのこと一番目立つ場所に置いておけば、灯台下暗し、ということもある。と、控え室では誰かが気楽なことを言っていた。
第9図の△5五角を見て、控え室では皆、羽生優勢を口にし始めた。
勉強に来たという、日浦、森内、先崎らも全員羽生乗り。
外をふと見ると、いつの間にか雪が降り始めていた。
(中略)
島、苦吟の末の▲4七金は、控え室では、これでは駄目といわれていた手。以下も、ほぼ研究通りに進む。
しかし、島の▲9四歩を見て、羽生の手がバッタリと止まった。グッと両手を畳について、盤にのめり込む羽生の姿がモニターに映る。最後の難所であることは、羽生も知りつくしている。そこで、腰を落とし、67分、隅々にまで、まるで盤上のホコリを掃くように読みふける。チリ一つ見逃しはしない、そんな集中力が伝わってくる。
島は、といえば、この間はさすがに落ちつきがない。CTスキャンをかけられているような気分だったんじゃなかろうか―。
この67分で勝負がついた。
(中略)
この夜、島と羽生は、もう一つの竜王戦ともいえるモノポリーを、実に楽しそうに、和やかに戦った。なぜか、仲間に入らずに、銀行のディーラー役を谷川が勤めるという豪華版。
私が見ていた時は、島が山ほど建てた一等地のホテルに、羽生がドンピシャの着地。宿泊代を払い切れずに、羽生は破産。島、大いに溜飲を下げるの一幕であった。
翌朝、下呂駅のプラットホームで島の冒頭の言葉を耳にした。しかし、この日は島はついていなかった。
昨日の雪で名古屋行きの電車が遅れ”つらいものがある”風景を十数分も余計に眺めながら、待ちぼうけを食らわされてしまったからである。
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棋士が将棋に負ければ、どのような場所でも島竜王(当時)のような心境になってしまうだろう。
特に、この頃の島竜王は、第1局前夜祭で知り合った今の奥様と交際中だったので、なおのこと東京に早く戻りたいという思いが強かったのかもしれない。
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大崎善生さんの観戦記、面白い。
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