河口俊彦七段、東公平さんなどのご尽力で将棋ペンクラブが発足したのが1987年11月27日。ちょうど26年前の今日。
毎年書いているかもしれないが、発足した日は、鈴木環那女流二段が生まれて25日後、中村桃子女流初段が生まれる3日前、芹沢博文九段が亡くなる12日前にあたる。
今日は、将棋ペンクラブがよろよろとしかけた時の話。
近代将棋1993年7月号、湯川博士さんの「好きこそものの」より。
将棋ジャーナルがついに休刊になるがついては団鬼六オーナーを慰める会をやるから来ないか、とのお誘いを受け、某日、下北沢の小さな飲み屋に行った。森けい二九段、真部一男八段ほか編集者、ライター、カメラマン、新聞記者など親しい人が十数人集まって狭い店内は貸切状態となった。席上、団さんは「奮闘したが刀折れ矢尽きた」と語った。
思えばジャーナル誕生は1977年の夏だから16年生きてきたわけだ。こいつは誕生して半年目にしてすでに休刊説が出たかわいそうな奴だった。
雑誌が誕生してまもなくのころ、同じ町の奥山紅樹さんの家に遊びに行ったとき、この雑誌が部屋に置いてあった。なにげなくパラパラとめくって見て、今まで見たこともない雑誌であることに気づいた。将棋連盟になにやら楯突いて頑張っているようなのだ。私が熱心に見ていると奥山さんが、「持っていってけっこうですよ。なかなか元気があるでしょ、その雑誌・・・」
半分苦笑いのようだったと記憶している。ともかく家で隅から隅まで読んで、これなら私の原稿を載せてくれそうだと思った。そのころ、近代将棋や将棋天国に投稿して喜んでいた私はさっそくエッセイを投稿したら、すぐに載せてくれた。
これが縁で次号には6本(友人に頼んで)も原稿を入れた。編集長がいなくなって困っていることも知った。アマ連の役員会に出て休刊説も聞いた。ちょうど会社を辞めて暇があったので各地の取材など手伝っているうち、編集をやってくれないかという話になった。収入面では話にならなかったが、なにか男の血を騒がすようなものが雑誌のなかに感じられ、少考の末やることにした。それが第7号だから、ちょうど誕生1年目(隔月発行だった)に当たる。
入って驚いたのは想像以上に将棋連盟との関係が悪く、その分各地のアマ強豪や連盟に不満を持っている人には支持を受けていた。当時の記事に「読売日本一に出たものはアマ名人戦に出られないようにするという論調が連盟内で出ている」とあるからその間の事情は察しがつく。本邦初のアマ賞金大会だったのと、読売がアマ連(日本アマチュア将棋連盟・将棋ジャーナルの発行元)に味方するのは反対という理由だったろう。アマ連では朝日アマ名人戦と読売日本一戦が主力で、今までセミプロ(将棋でお金を稼ぐ人)を締め出していたアマ棋戦になんでも有りという風穴を開けた。のちにアマ名人戦(連盟主催)もそのようになった。
私は1984年に辞めたから6年間やったことになる。生活がかかっていたから隔月刊を月刊誌にし、売上を伸ばすために営業・販売も力を入れた。最盛期には1万部近く出た。その後は後輩の横田稔氏が編集を引き継ぎ2年間やった。ここまでがジャーナルらしい誌面だったと思う。すなわち清濁合わせて呑むアマ強豪のパワーで進んでいたわけだ。
このあと矢口勝久→団鬼六とオーナーが代わり、当然誌面も変わった。
将棋ジャーナルは誕生の時から鬼っ子で祝福されざる奴だったが、アンチ勢力のパワーで強引に突っ走った。そしていくつかの成果も将棋界にもらたした。その後はパワーが失われ、それに替わるものを見付けないまま雑誌を出し続け、ついには力尽きた。二度ほど(団氏と後援者に)編集を手伝ってくれと言われたことがあるが、将棋ジャーナルの編集というのはとても片手間に出来る代物ではなく、24時間その気でやらないといけない。ライターになっている身では不可能ですとお答えしておいた。
しかし生まれたとたん殺す相談をされた奴にしてはしぶとく生き延びたほうかもしれない。また違う雑誌に生まれかわって暴れてほしいと願う。そのとき私が暇ならやるかもしれないなあ・・・。
もうひとつ、将棋ペンクラブがよろよろとしかけた。会長の河口俊彦氏と副会長の東公平氏が辞任したいという。たぶんお疲れのせいだろう。ご苦労さま。このクラブは会員が何百人もいることだし放っておくわけにもいかず、残った幹部で善後策を話しあった。結局、井口昭夫氏(元毎日新聞記者)が事務局を引き受けてくれ、それを幹事がバックアップする形にして急場をしのいだ。
連盟近くの喫茶店で河口夫妻と幹事3名が会い、事務引継を無事終了した。会計報告の用紙には河口夫人の字がびっしりと並び、孤軍奮闘ぶりを十分想像させた。なれないことをやった苦労はあまり語らず、「これでホッとしましたわ」と笑顔で締め括った。
今まで会報を年に4回発行していたが、そうとう負担がかかるので、年2回にしてあとは速報のようなものを出そうという案が出ていた。これからもう少し練って新しい魅力あるものにしていこうと、話あった。はじめはみんな元気があるのだが長くなると疲労が見えてくるものだ。ひとりに負担が強すぎるとダウンしてしまうから、そこのところをうまく分散してやるしかない。
(以下略)
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近代将棋1993年9月号、「将棋ペン倶楽部① 新会員を募集中!」より。
将棋ペン倶楽部は、将棋と文章を愛する人の集まりで、どなたでも入会できます。現在会員を募集しております。
(中略)
新スタッフでリフレッシュ
かねてより辞意を表明していた、河口俊彦会長と東公平副会長から、新スタッフへバトンタッチされた(5/12)
〔代表幹事〕
井口昭夫(事務局担当)、大竹延(大賞担当)、湯川博士(編集担当)
〔幹事〕
東公平、田中寅彦、青野照市、木屋太二、池崎和記、笹川進ほか
会設立以後、ハードワーク気味だったお二人はご苦労さまでした。さて、新スタートは急遽リリーフの3人組を中心に運営されることになった。当分の間会長は置かず、代表幹事が役割を分担してやっていくことになった。会の内容は変わらないが、時代にあわせていくつかの改良を加えた。
◯会費値下げ・・・年5,000円→年3,000円へ。(会報は年4回→2回、間には通信発行)
◯統一会員・・・正会員、購読会員、顧問などを廃止し、すべて会員に統一する。
(以下略)
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私が将棋ペンクラブに入ったのが1996年12月なので、その3年前のこと。
将棋ペンクラブが現在の姿(会員の制度、会費、会報)になったのがこの1993年からだった。
河口俊彦会長、東公平副会長時代は、将棋ペンクラブ大賞関連、会報関連、イベント関連、事務局などの負荷が二人に集中する形となっていたので、本当に大変だったと思う。
東公平さんが、将棋ペンクラブ創設の頃のこと、辞任する時のことなどを1999年の将棋ペンクラブ会報に書かれている。
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仕事の関係で、将棋ペンクラブにお願い事をするために将棋ペンクラブの代表幹事だった湯川博士さんとお会いしたのが1996年の12月のこと。
その日のうちに私は会員にさせられて、新年に行われる原田泰夫九段邸での将棋ペンクラブ新年会にも参加するよう言われた。
新年会で飲んでいる時だったか、湯川さんから幹事になってみないかと誘われた。
幹事なんて滅相もないと断ったのだが、「じゃあ、良かったら会報の発送作業がある時に手伝いに来てよ」と湯川さん。
発送作業の後は必ず飲み会があるということだったので、ついつい「手伝いだけならOKです」と答えてしまった。
その後、いつの間にか私は幹事見習いということになっていた。
幹事見習いは2年間続き、1999年から幹事になったのだと思う。
幹事見習い期間があった幹事は、歴代で私一人だけだろう。
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それにしても、将棋ペンクラブに入会してから17年も経つのかとビックリしてしまう。
まだ7~8年しかやっていないような感覚だ。
このブログも始めてから5年6ヵ月になるが、こちらもまだ2~3年しか経っていないような感覚に襲われることがある。
私の中での年月的感覚が歪んでいるのかもしれないが、逆に長く感じるよりも良いことなのかもしれないと思うようにしている。
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