羽生善治名人が、「この対局では完全燃焼しました」という表現を使うことは非常に稀であるが、その非常に稀なケース。
将棋世界1995年2月号、羽生善治六冠(当時)の第7期竜王戦第6局〔羽生善治名人-佐藤康光竜王〕自戦記「完全燃焼の一局」より。(途中1~途中3図を追加しています)
ついにその日がやって来た。
12月8日、第7期竜王戦七番勝負、第6局。
ここまで3勝2敗とスコアでは一つリードしていたものの、不安と緊張を完全に打ち消すことは出来なかった。
その一つの要因として佐藤竜王の調子が徐々に上向きになっているのを感じていたからだ。
確かに第1局、第2局は明らかに変調という印象を持った。
しかし、第3局以降はそれまでとはがらりと内容は変わった。
また、自分自身の調子があまり良くないことも気がついていた。
その証拠に11月は3勝4敗と一つ負け越している。
もちろん、いつもいつも調子が良いということはありえないのだから、こういう事も覚悟はしている。
それだけにこの一局は下降線に拍車をかけるか、持ちこたえることが出来るか大きな分岐点になる一局である。
普段はあまり事前に作戦を立てることはないのだが、本局は矢倉▲3七銀戦法と決めていた。
第3局で後手を持って指した時に納得のいかない所があったからだ。
この戦法は本当に寿命が長く、もう10年以上よく指されている。
流行の移りかわりの激しい現代将棋の中では信じ難い存在なのだ。
そして、これだけ実戦譜が現れてもまだまだ結論らしきものがないのだから困ってしまう。
本局でもまったくの新型になった。
1図、一日目の封じ手△6四歩が今までになかった新手。
この手には本当に驚いた。
私は二日目の朝、封じ手が開封されるまで△6四歩は一秒も読んでいなかったのだから。
この局面では△5五同歩▲同銀△5二飛と反発して来て、その後の変化をずっと考えていた。
それも難解でどう指したらよいか解らないので、当然、この手順で実戦は進行すると思い込んでいたのだ。
それにしても△5五同歩の一手なのに長考するので不思議だった。
△6四歩は角道を止めるので勇気のいる一手。この手なら長考も納得できる。
今度は自分が長考する番、▲5四歩△同銀▲7五歩△同歩▲5五銀という過激な手順を考えたが、さすがに無理のようだ。
そして、実戦は▲5四歩△同銀▲9六歩△2二玉と進行、お互いに駒組みが頂点に達し、これから激しい攻め合いが始まる。
相矢倉の攻め合いというのは将棋の醍醐味の一つで、こういう将棋が指せるようになると今より二倍は将棋が面白くなるはずだ。
とにかく、スピードが全てでどちらが先にゴールに駆け込むかという展開なのだ。
2図、△9五歩は対局中に感心した一手。このタイミングでないと先手は▲同歩と取らない。
また、この二手を交換しておくことによって、将来、先手が端玉になった時に詰ましやすいというメリットがあるのだ。
ここまでは順調に指し進めて来たと思っていたが、この端歩の突き捨てによって、形勢に自信が持てなくなりつつあった。
どこでおかしくしたのだろうと疑問にも思ったが、今の局面もまだまだ難しいと気をとり直して先の展開を読んだ。
2図から▲9五同歩△7五歩▲同歩△6四銀▲3四歩△7五銀▲7六歩△6六銀で3図の局面になる。
△7五歩に▲3四歩も考えられるが、△7四銀▲3五銀△2五銀▲同歩△7六歩▲同金△7五歩で後手の一手勝ちになってしまう。
3図の局面で端の突き捨てがなければ▲6六同金△同歩▲3三銀△同桂▲同歩成△同銀▲同桂成△同金直▲2五桂で先手の一手勝ちとなる。
しかし、突き捨てがあると負けなので▲3五銀は盤上この一手。
この時、△2五銀が手筋の一手、未だかつてこの部分的な形で△2五銀と取った手が悪手になったことは私は一度も見たことがない。
それぐらい絶対的な一手なのだ。
△2五銀▲同歩の形になってみると▲3五銀の一手がややスピードに欠けた感じがするのだ。
△6七銀成▲同金の時に△3七歩(途中1図)が手筋のように思えて実はそうではなかった一手。
ここは△6六歩として▲同銀(▲同金は△8六桂▲同歩△同歩▲7八玉△6六角▲同銀△5六金)△8六桂▲同歩△同歩▲同角△6六角▲同金△8六飛▲8七歩△7九銀▲7七玉△8二飛(変化1図)となれば後手良し。
次の△5九角▲6八歩△4八金がとても厳しく、先手はそれを上回る速い攻め手がない。
しかし、自分はこの手順に全く気がついておらず、△3七歩の一手だと対局中は考えていた。
実戦心理とは面白いもので、もし、自分がこの手順に気がついていたら実戦で前述の手順を指されていたと思う。
”知らぬが仏”という言葉があるが、まさにそんな感じだった。
変化1図の局面になると先手に変化する手はたくさんあるものの、どうも負けのようだ。
一番の危機を知らず知らずのうちに通り越していた。
しかし、まだ形勢が良くなったわけではない。
飛車を玉頭に転換できたものの、後手に手順に馬を作られたのも大きなポイントなのだ。
4図は今までのすさまじい攻め合いを象徴しているような局面。
そして、この△8六歩が△9五歩と同様、絶好のタイミングでの突き捨てになっているのだ。
この局面ではまず、△6八金と角を取る手が第一感として考えられる。
しかし、それは▲2三歩成△同金▲2四歩△7九角▲9八玉△1三金▲6八銀△9五香▲9七歩△6八角成▲2三銀△3一玉▲3二金△同飛▲同銀成△同玉▲8二飛△4二金打▲2三歩成△同金▲同飛成△同玉▲2四歩(変化2図)で手順は長いものの一直線の変化で先手の勝ちが決まる。
この変化を避けるためには4図の△8六歩を突くしかないのだ。
先手も▲2三歩成を決めてから玉頭の歩を取りたいが、△2五歩と催促された時に困る。
だから、▲8六同歩の一手、この二手は実に大きな利かしだ。
△6八金(途中2図)と角を取った時に▲2三歩成△同金▲2四歩と玉頭を攻めるのが肝心な手順、▲6八同銀だと△8七歩▲同玉△7四桂で一気に敗勢に転落してしまう。
▲2四歩の瞬間に△8七歩と打てるのが△8六歩と突き捨てた効果、▲同玉なら△6九角▲9八玉△1三金で後手の勝ちとなる。
よって▲9七玉と逃げる一手、△1三金▲6八銀で相変わらず難解な局面が続いている。
この時点で残り時間はお互いに約40分ずつ、通常ならば終盤でもあるし、十分に残っている感じなのだが、本局はいくら時間があっても足りないくらい難しい終盤戦。
佐藤さんは残り5分まで考えて次の△2五歩(途中3図)を着手、だいたいの見通しを立てたのだと思う。
この局面でも▲2五同飛、▲2三銀、▲4一銀などが考えられ、どれが一番良い手か解らない。
そんな局面がこの後もずっと続いたが、ようやく勝負の結果が見えて来たのが、5図の局面。
後手玉は必至なので先手玉に即詰みがあるかどうか。
詰ましに行くなら△8八馬しかないが、▲9六玉△9五香▲同玉△8四銀▲9六玉△7四角▲8五香(変化3図)で後手はどうしても打ち歩詰めを打開することが出来ない。
△8四銀で△8四角も▲9六玉△9五歩▲8五玉△7四銀▲9四玉で△8三金と上がることが出来ないので不詰め。
どうにかきわどく残っていたようです。
”勝ち将棋鬼のごとし”と言いますが、5図などはその典型で、盤上の駒が全て先手の都合の良いように配置されています。
ここまで来るとツイてるとしか言いようがないでしょう。
投了図以下は△5五玉▲4六銀△5四玉▲5三金打△同金▲同金△6四玉▲6三飛成まで。
これで4勝2敗、昨年の雪辱を果たして竜王に返り咲き、タイトルも六つということになりました。
今期の竜王戦に関しても1・3・4・6局は最後の最後までぎりぎりの勝負で一歩、歯車が狂えば昨年のようなことになっていたでしょう。
そんな勝負の繰り返しの中でこの位置まで来れたのは信じられないような気持ちです。
これで”七冠”へのステップを一つクリアしたのですが、まだまだハードルはたくさんあります。
どこまで行けるかこれからもチャレンジして行くつもりです。
それとこの竜王戦のような将棋をこれからも指し続けられればいいなと思っています。確かに内容的には不満が残るのですが、今の自分ではこれぐらいが精一杯なのでしょう。
しかし、一局の将棋で完全燃焼できたその充実感は確かに自分の胸の中に刻み込まれました。
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羽生善治六冠王誕生の一局。
変化が深くまで書かれているので全てを理解するのは難しいが、羽生名人が完全燃焼できた過程がとてもよく分かる。
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第3局(羽生名人の勝局)で後手を持って指した時に納得のいかない所があったから、今度は先手番で矢倉▲3七銀戦法を指す、というのは現在にも続く羽生流の指し手の追求指向の戦型選択。
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- 相手から、自分が気が付かないような手、感心するような手が何手も繰り出される。
- 羽生名人も一生懸命考える。
- 難解な中盤戦。
- いくら時間があっても足りないくらい難しい終盤戦。
- ずっとそのような局面が続くが、最後にようやく勝ちが見えてくる。
これらの条件が揃うことが、羽生名人が完全燃焼するケースの一つとなるのだろう。
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「相矢倉の攻め合いというのは将棋の醍醐味の一つで、こういう将棋が指せるようになると今より二倍は将棋が面白くなるはずだ」と羽生名人が書いている。
矢倉を指すことが好きではない(というか指せない)私にとっては、非常に耳が痛くて悩ましい言葉だ……