将棋世界1998年10月号、郷田真隆棋聖(当時)の村山聖九段追悼文「村山君との思い出」より。
八月十日、将棋連盟で滝先生より村山君の訃報を知らされて、あまりに突然のことに言葉を失くしました。一年、或いはもう一年、体調を戻して元気に復帰してくれるものだとばかり思っていました。
今年の初め、私が対局で大阪に行った時、遊びに来ていた村山君と、後輩の矢倉君と3人で麻雀を打ちました。
それが村山君との最後の思い出になりました。そのあと一度だけ会って少し会話を交わしたのですが、それがいつだったのか、どうしても憶い出せません。
村山君と初めて出会ったのは、昭和五十八年、彼が奨励会入会の二次試験で他の奨励会員と対局している時でした。
私は多分近くで対局していたのだろうと思います。あの独特の風貌に詰め襟の学生服姿が印象的でした。
付き合い出すようになったのは、多分私が二十歳前後の頃からだったと思います。凄いスピードで四段、そしてA級八段へと駆け上がっていった彼に、私はいつか追い付き追い越したいと、対抗心を持っていました。奨励会では対戦がなく、公式戦も数える程ですが、対村山戦はいつも気合が入っていました。
図は、そんな対村山戦の1コマです。
逆転負けの悔しい一局でしたが、終盤、村山君が顔を紅潮させて、全身に力を込める様なその姿に、少しは本気を出してくれたのかな、とも思いました。
村山君が東京に住んでいた頃は、よく一緒に麻雀を打ちました。私の対局が終わるのを彼が何となく待っている風な時もありましたし、私が早朝に彼を呼び出したこともあります。
麻雀を打っている時の村山君は、将棋と同様に勝負に厳しい一面を見せながらも、いつも実に楽しそうでした。
私は彼のことが好きでした。盤上ではライバルであり、盤を離れれば仲間であり友人でした。それよりも何よりも一人の人間として、私はムラヤマヒジリが好きでした。
もう、あの天才と盤を挟むことがないのだと思うと、本当に寂しい。
そしてあの笑顔を見ることも―。
一度でいいから、大舞台でお互い本気を出して、思う存分戦ってみたかった。
謹んで故人のご冥福をお祈り致します。
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郷田真隆棋聖(当時)の心のこもった追悼文が胸を打つ。
何かで読んだ記憶があるが、郷田王将は故・村山聖九段のことを親しみを込めて「ヒジリちゃん」と呼んでいた。
そのような意味もあり、郷田棋聖はムラヤマヒジリと書いている。
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郷田真隆六段(当時)の対局が終わるのを何となく待っていた村山聖八段(当時)。
面子の一人が家に帰らなければいけなくなった早朝の三人徹夜麻雀。郷田六段に電話で呼び出される村山八段。
村山九段の少し嬉しそうな表情が頭の中に浮かんできて、何とも言えないたまらない気持ちになる。
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「今年の初め、私が対局で大阪に行った時、遊びに来ていた村山君と、後輩の矢倉君と3人で麻雀を打ちました。それが村山君との最後の思い出になりました。そのあと一度だけ会って少し会話を交わしたのですが、それがいつだったのか、どうしても憶い出せません」と書かれているが、実は1998年2月27日に東京の将棋会館で、王位戦挑戦者決定リーグ白組 郷田真隆六段-村山聖八段戦が行われ、201手の大熱戦の末、郷田六段が勝っている。
この追悼文は、9月上旬発売の将棋世界10月号掲載というスケジュールから考えて、村山九段が亡くなった直後に書かれたものだと思うが、村山九段と最後に会ったのが大熱戦の対局であったことを憶い出せなくなるほど、郷田棋聖は大きなショックを受けていたということになる。