将棋世界1998年10月号、森信雄六段(当時)の村山聖九段追悼文「村山君よ、安らかに」より。
昭和57年9月、お母さんに連れられて、関西将棋会館の道場で会ったのが、村山君との初めての出会いだった。
ワイシャツの袖をまくり上げ、足元を見ると裸足で、「靴下をはかんとあかんぞ」
「この子は冬でもこうなんです」
ネフローゼのせいで、ふっくらしていて、すでに独特の風貌だった。
ひと目みて、弟子にすることに決める。今にして思うと不思議な縁だった。
奨励会入会試験は合格したが、私が師匠になることで、厄介な問題が生じ、結局、自主的に入会を見合わす結果になってしまった。
事情を知らない私の軽率さはあっても、大人の問題で、子供の村山君には関係ないこと。
そう説得してまわったが解決できず、悩んだ末に折れてしまったのだ。
「なんで、なんで奨励会に入れないの」
村山君はワンワン泣き出し、今もこのときの姿が目に浮かぶ。このとき、決意した。
「一年待てば堂々と入れるから、私にそれまで責任持ってあずからせて下さい」
このときの事はもう過去の事なので、つらかったなあという印象しか残っていないが、それ以上に、村山君との運命的なものを感じる。
私は当時独身で、関西将棋会館の近くに住んでいた。
村山君が初めて家に来た日、さっそく盤駒を取り出し、パチンパチンとたたきつけるように棋譜を並べ出した。
お母さんに聞くと広島の家でも毎日、「名人になるんだ!」と叫びながら、勉強していたそうだ。「駒音を静かにな」。
ある日、私の家で研究会をしていて、学校から帰った村山君と一局指す。横歩取りからの手将棋で、早指しで野性味のある将棋と思った。私の必勝形となった瞬間、王手をうっかり、村山君がさっと私の玉を取った。みんなあっ気に取られ「師匠の玉を取る弟子がいるか」。
村山君は狭い机の下にフトンを敷いて、もぐり込んで寝ていた。初めの頃、私は手料理を作ったが、まずくてやめる。一度、食事の片付けで洗いものをさすと、「森先生、手がきれいになりました」。
学校から帰るとすぐ連盟道場に行き、私が迎えに行って食堂で夕食を一緒にしていた。
私が夜遅くまで麻雀していると、雀荘まで村山君が来て「先に帰って、寝ときや」と言っても待っていた。子供の頃から病院生活が長かったせいか、ひとりで寝るのをさみしがっていたようだ。
ある晩、40度近い熱が出た。氷で冷やすのだが、「森先生、今、何度ありますか?」
「うん、39度やなあ、大丈夫か」
しばらくして「今何度ですか。42度になったら、僕死にます」 体温計をみると、41度を超えていたが、「うん、40度やなあ」とごまかした。朝方、熱が引いた。
一度、散髪に行かないので、髪の毛をつかんで引っ張っていったことがある。泣きながら抵抗したが、これに凝りたのか、たまに行くようになった。
二人とも風呂が苦手、顔を洗わない、歯を磨かなくても平気、奇妙な同居生活だった。
会館ですれ違うと、村山君が私を見て「まずい」と姿をかくし、何でもないのに「こらっ」が二人のあいさつだった。
とても愛敬があって、人気者だった。体調のことは、いつも油断できなかったが、いつのまにか弟子以上のものを感じるようになった気がする。
一年たち、奨励会入会試験も無事にクリアし、やっと村山君の棋士人生がスタートした。
奨励会に入り、休むことも多かったが成績は抜群で、どんどん昇級していった。
病院から奨励会に出たこともある。そんなときは、広島からお母さんが来て、身の回りの世話をしていたが、たまに交代で私が病院に行き、いやがる村山君のパンツを洗濯したこともあった。
少女漫画を頼まれ、大阪まで、探し回ったこともあるが、血生臭いのはきらっていた。
爪を伸ばし放題だったのも、「伸びてくるものを切るのはかわいそうだから」、やさしさと慈しみの気持ちの表れだったと思う。
子供の頃、入院生活の病棟で、死んでいく子を何人も何人も見て育ったことも、村山君の人を見る目、人生を見透かす目を養ったのではないかと思える。
村山君の症状をめぐり、御両親、主治医の先生と、常にどういう判断をして、どう選択していくか、その話し合いの繰り返しだった。
そして何より本人が、病気で制約された自らの人生をどう切り開いていくか、闘いと葛藤の毎日だったかもしれない。
今年の5月、ガンが再発して入院したとき、一切を伏せていた。病室の名札もかけず、電話も、外でしていたそうである。
誰にも知らせるな、死去の際も密葬にするようにと、毎日のように言っていたらしい。
師匠にも知らせるなと聞いたとき、ちょっぴりつらかったが、村山君にも何か考えがあってのことだろうと従うことにした。
御両親も迷っただろうが、ある日、電話で再発のことを知らされ、ショックを受けた。
食べてもすぐ吐き、40度の熱が出る日が続いた。痛みに耐え、薬に頼らず、自分のからだで治そうという強い意志で、ガンと闘った。
今年一年休場して、来期にかける目論見は無残に村山君を引き裂いた。
40日間、放射線の治療を受けた甲斐もむなしく、転移した。
私は村山君にはもちろん内緒で、御両親からときどき、症状を聞くことにしていた。
そして、辛抱強く待った甲斐あって、仕事のついでにさりげなく立ち寄れば、という同意を得て、時期をみていた。
村山君を裏切らないようにと思いつつ、早く見舞って顔をみたいの気持ちだった。
平成10年8月8日、家から「村山君のお母さんから、さとし、もう駄目なんです」の知らせがあり、広島に向かう。
電車の中の聞き取りにくい携帯電話が鳴って、訃報を聞いた。間に合わなかった。
広島駅で出迎えてくれたお兄さんの車で、平安祭典に向かう。
村山君はフトンの中で寝ているようだった。
ふるえと悲しみが交錯して、白布に手がさわれず、泣きくずれるよりなかった。
まるいほっぺにさわると、今にも起き出しそうで夢を見ているようだった。
鼻の頭に汗が一滴あって、ただ眠っているとしか思えなかった。
家族ではないけど、お通夜に出させてもらった。お父さんは「毎朝、毎晩、さとしと一緒にいる時間が、こんなに多かったのは初めてです。この子は病院の生活ばかりだった」。
ひとりでいる時間が長かったなあ、村山君、つらかったけど、よく頑張ったなあ……。
お経を聞いている間、涙が止まり、静かな気持ちになった。
8月9日、午前11時、お葬式に出させてもらう。昨晩、御両親と村山君の遺影の写真を一緒に選んだ。テレかくしの伏し目がち、ネクタイがずれ曲がっている、いつもの格好だ。凛々しい表情の一枚を捜した。
最後のお別れで、村山君にいっぱいの花を添えているときお父さんが「足の爪も伸び放題で……」となでてあげていた。
遺髪を切ろうとしたとき、御両親が泣きくずれた。「さとし君、よく頑張ったね」。
からだを蝕んだ悪魔はもういない。悔しいけど、これから静かな時間でゆっくり休んでな、村山君。
脱水症状、腸閉塞、最後まで痛みに耐え、病気と闘い、復帰する執念を捨てなかった。
痛みがひどくなり、医者がたずねると、ようやく「うん」とうなずいたそうである。点滴に薬を入れると、急に飛び上がるように「これは何?おかしい」と言ったそうだ。
症状が悪化しても、ずっと意識があったが、眠るように意識不明になっていった。
最後のうわ言で、「◯◯◯、◯◯◯、2七銀」と将棋の駒を符号で、二言、三言、話してつぶやいたと言う。
平成10年、8月8日、午後零時11分、村山聖は永眠した。
「満29歳の若さでしたが、その倍以上の人生を凝縮して生きてきたと、私たち家族は信じています。今まで本当に有り難うございました」お父さんの言葉である。
私は村山君の人生との関わりで、どれだけ彼を理解していただろう。
とっても幼くかわいい面と、物事や人の心の奥を見透かす、洞察のすごさの二面性が村山君にはあった。
子供が好きで、やさしかった。
「師匠は弱いですから」と、あまり一緒に飲んだことはないが、酒も麻雀も強かった。
純粋さからくる一本気なところもあったが、常に村山流の理詰めの考えによるもので、納得させられ、すべて任せていた。
村山君が、真っ白いお骨になっても、近くにいる、まだ遠くにいっていない気がしてならない。
帰りの車で別れ際、お兄さんが「さとしはいつも覚悟はしていたんですけど、復帰するつもりでした。最後まで、復帰することをあきらめてなかったんです」。
死んでも、村山君はいつも私のそばにいる、そう思うと、さみしくはない。
村山聖は汚れのない生をまっとうした。
戒智山聖英居士、さようなら。
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森信雄六段(当時)の村山聖九段への追悼文。
この文章を打ち込むのに要した時間は約1時間。その間のほとんどの時間、私の目からは涙が溢れていた。ずいぶんと長く泣いていたことになる。
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今日の21:00から放送される日本テレビ系「解決!ナイナイアンサー 2時間SP」で、故・村山聖九段とお母様の物語が紹介される。
師匠の森信雄七段もインタビューを受けている。