将棋世界2005年3月号、青野照市九段の「渡辺竜王とその世代」より。
弱冠20歳の竜王という、新しいスターが誕生したことで、将棋界は世間に大きな話題を提供することとなった。
とはいえ、加藤一二三九段、谷川浩司棋王、羽生善治二冠に続く四人目の中学生棋士となった渡辺明竜王は、先の三人に比べると、これまで決して早い出世とは言えなかった。
加藤は18歳でA級八段という、前人未到と言うより、永久に破られないであろう記録を持っているし、谷川は20歳の時にはすでにA級で、一年目の21歳で名人となっている。また羽生は19歳で竜王という、これまた破れそうもない記録を持っているからだ。
もっとも中学生で四段になるような棋士を天才と呼ぶならば、渡辺も天才棋士の一人として、将棋界を注目させ、話題を作るという役目をようやく果たしたと言えるだろう。
私自身は渡辺を含む20歳前後の棋士と、そう多く指している訳ではないので、渡辺将棋とその世代を語るということになると、どうしても棋譜を見た実感と、タイトル戦等での振るまいという観点からになるのを許して頂こう。
まず渡辺世代の前は、どのように世代が移っていったかを考えてみたい。
十数年前になろうか。私より10歳ほど違う島朗八段、塚田泰明九段らの世代を『新人類』と呼んだ時代があった。この世代は、高橋道雄九段が王位に就いたことから、次々と同世代がタイトルを取り出したということがある。なお谷川も同世代ながら、一歩も二歩も独自で先を進んでいたから、世代の力とは言えないように思う。
この世代のことを先輩棋士が「彼らと将棋を指すと、人間と指しているのでなく、コンピュータと指している感じがする」と評したことがある。後になってみると、決して彼らの将棋がコンピュータ的でないのが証明されるのだが、ただそれまでの人間的成長がなければ、将棋は強くなれない式の精神論を、将棋は盤上の技術が優れている者が勝つ、という理論で先輩を負かしていったのだった。『新人類』という呼称は、そのあたりのことを指す意味もあったろう。
次に羽生世代が来る。この世代は羽生善治現二冠が、一時は七冠を制覇するほど一人で突っ走ったから、羽生に何とか追いつき追い越そうとする同世代が、いつの間にか他の世代のほとんどの棋士を抜いてしまった、という効果をもたらした。それだけ追走する同世代の棋士も、レベルが高かった訳で、なおかつ層も厚かったから、この世代がそのまま今日の棋界の中核を成している。
もう一つ羽生世代は、個々が強いだけでなく、将棋の戦術、戦略までも変えてしまったという、決定的な強みを持っている。
すなわち今まである局面から新しい手を発見し、結論を変えてしまうというような小さな改革ではなく、今までよりはるかに堅い囲いの発見―新しい築城術―や、攻めは飛角銀桂、守りは金銀三枚という、将棋の基本と言うべき考え方をも、変えてしまったのだ。その代表的な戦法が、「藤井システム」や「8五飛戦法」であり、また穴熊や「ミレニアム」に代表される、金銀四枚をすべて囲いに使う考え方である。
これらについていけない先輩棋士達は、たとえて言えば木造の城で鉄筋の城と戦うかのような負け方が続き、時代に取り残された。
それでは羽生世代から一回りほど違う後輩は、どうであろうか。彼らは子供の頃から新しい感覚、考え方で将棋を学んでいるから、穴熊であろうと矢倉であろうと、また8五飛戦法もまったく違和感なく指せる能力を持っている。渡辺はその中心的棋士と言ってよい。
しかし羽生世代、そしてその世代を追うすぐ下の深浦康市、久保利明、三浦弘行、鈴木大介といったA級八段勢の層がぶ厚く、若さというパワーだけでは、今の先輩世代を打ち破ることは容易でないと感じていると思う。
そこで彼らは何をやっているか。どうやら通常の研究会やVS(一対一の対局)というだけでなく、最近のテーマの局面における研究や、どこかで誰かが指したという情報を、携帯電話等を使い、頻繁にやり取りしているようなのである。
今までの考え方だと、研究会で研究した結論は、自分と対局した相手だけ、もしくは会のメンバーだけというのが普通だった。研究会の相手やメンバーでない人に、研究した結論を教える必要もないし、損だと思うのが当然だったのである。
しかしそれだと、間違った結論を持って実戦に臨む恐れがあるし、他の対局で違う結論が出ても、知らないままで終わることもある。仲間同士で情報を回し合えば、情報洩れの確率はグンと低くなる。
島世代は高橋がタイトルを取ったことにより、彼が取れるなら自分にも取れない訳はないという三段論法、そして自信の連鎖という形で、次々とタイトルを取っていった。
羽生世代は、羽生が引っぱったことにより、同世代のレベルが格段にハイレベルになり、これまた次々とタイトルを手に入れた。
しかし渡辺世代は皆で研究して強くなり、まず渡辺を押し上げて後、自分達もその高みに登ろうという形にみえてならないのである。
もっとも渡辺が、ただ研究だけで勝つようになった訳ではないのは、当然である。ただ自分は研究時間においては、先輩よりはるかに多いから負ける訳はない、という自信に満ちているかに見える。そして感想戦をやっても、自分の方が良いと思った変化は決して譲ることも、お世辞で難しいなどと言うこともない。それが一部の先輩棋士には、不遜に見えることがあるらしい。
もう一つは羽生世代から受け継いでいる、良くなってからの勝ち方の正確さである。これも勝ちだと思った時の手つきは、自信に溢れて迷いがない。それはあたかも水泳の北島が、大勝負になるほど自分の実力を十二分に発揮し、ふるえることがない『新人類』的な存在であるのと、共通点があるかと思う。
この渡辺を、羽生世代が意識しない訳はない。「研究だけしていれば、勝てるというものではない」「研究会の続きをタイトル戦でやるのか」「同じ戦法だけやっていていいのか」等の反発心は起こるだろうし、反対に「それは研究が足りなくなった人の言い訳ですよ」という、逆の意味の反発もあろう。
羽生世代にとっては一番タイトルを渡したくないのが、渡辺の世代だろう。自分の世代でタイトルが回っている限りにおいては、いったん自分から離れても、また戻ってくる可能性はあるが、後輩の世代に行くと、もう戻らないという危険性があるからである。
王座戦で羽生が見せた終盤の指のふるえ、そして今回の竜王戦で見せた森内俊之前竜王のイライラした感じは、明らかに今までのタイトル戦では見せたことがなかったものである。
そこから考えると、羽生や森内が渡辺のことを、真の敵と認めた証拠であると思う。勝負というのは、そうこなくては面白くない。
渡辺世代にとっては、羽生世代に挑戦する仲間を、一人でも増やしたいところだろう。孤軍奮闘では、いかな渡辺でも精神的に疲れてくると思うからである。
ともあれ渡辺がタイトル戦線に登場したことにより、世代間の戦いという、新たな興味が将棋界に起こったことだけは間違いない。
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渡辺明新竜王誕生の直後の、青野照市九段による特別寄稿。
昭和末期から平成にかけてのそれぞれの世代の潮流が非常によく理解できる。
将棋史に関わる著書ができたとしたら、この文章がそのままその一節になりそうだ。
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この文章が書かれた2005年以降、渡辺明竜王は永世竜王となり、また、羽生世代は磐石の強さを発揮し続けている。
2005年以降の七大タイトル戦でタイトルを獲得した羽生世代以外の棋士は、
竜王戦…糸谷哲郎八段、渡辺明竜王
王位戦…深浦康市九段、広瀬章人八段
王座戦…渡辺明竜王
棋王戦…久保利明九段、渡辺明棋王
王将戦…久保利明九段、渡辺明竜王
あらためて、この10年間は羽生世代と渡辺明竜王の時代であったということが分かる。