将棋世界2005年6月号、河口俊彦七段の「新・対局日誌」より。
B級1組順位戦が終わった夜、大阪で対局していた。先崎八段、行方七段、阿部八段といった面々が酒を飲んだ。こういった顔ぶれなら談論風発、私も同席したかったくらいだが、とりわけ阿部君は、宿敵先崎八段を負かしたこともあって、機嫌がわるかろうはずがなく、将棋界の現状とあり方について、滔々と持論を述べたという。
そうして議論が盛り上がったとき、フト我に返って「来期のB級1組は最強やな」と言ったとか。これは、A級より強いという意味でなく、B級1組のメンバーの粒がそろった、という意味である。
たしかに来期、いや今期のB級1組のメンバー表を見ると、昇級候補もいなければ降級候補もいない。まさに実力伯仲である。島八段ではないが、7勝5敗で昇級、5勝7敗で降級、といった椿事が起きるかもしれない。
(中略)
そうして私達も今年の予想を楽しみたいのだが、順位戦の表を見て、どうしても気になることがある。
前月号でも書いたのだが、B級2組以上のクラスに20代棋士が一人もいなくなるということ。若手棋士が伸びていないわけで、これは将棋界にとって喜ばしいことではない。
どうしてこういうことになったのか。
昔話をしてもしようがないけど、私の修行時代、丸田九段は「負けるときは大差で負けろ、その代わり苦労して勝て」と口を酸っぱくして言った。また、鬼の花村は「序盤で四分六分なら互角、三分七分じゃ、わしも苦しい」と嘯いていた。二上九段は、序盤ですこし苦しいくらいの方が楽に指せる、とも言っていた。山田道美のような研究家もいたが、ほとんどの棋士が、中終盤に力を注いだ。
ところが昨今の若手棋士はその逆である。序盤を勉強し、そこでリードしようとする。そして差をつけたまま勝ってしまおうとする。それは楽に勝とうとしているように見える。奨励会時代からそんなことをやっているから、みんな奥(終盤)の力がない。そういえば、奥が強い、という言葉も死語になってしまった。
ともかくそんな風だから、いったん差がつけば、そのまま終わってしまう将棋が多い。30代の棋士はそこを見抜いているから、何となく若手棋士をなめている気配がある。若手のなかでは、渡辺竜王、山崎六段がはっきり抜けているが、それでもB級1組から上の棋士は、とてもかなわない、と思っていないだろう。であるから、他の若手については推して知るべしである。
「現代の将棋は序盤の不利を取り戻せなくなっている」。羽生四冠はそのような意味のことを言っているが、これは羽生四冠だから言えるのである。基礎の棋力、つまり中終盤の力があるからだ。また、羽生四冠に反論するわけではないが、現代の将棋でも、やはり終盤の粘りは物を言う。本欄でも取り上げた、前期A級順位戦の、羽生対丸山戦、羽生対久保戦がその例である。
若手棋士諸君が羽生将棋を見習うなら、まず、羽生四冠のデビューにて2年目くらいまでの将棋を全部並べるべきだろう。そこには詰まされるまであきらめない将棋、の見本がある。そうした鍛錬があって、現在の羽生将棋があるのだ。
(中略)
夜戦になると、控え室には人がいない。オフシーズン入りを実感させられる。テレビを見ても仕方ないので、老人席で一息入れていると、対局室から帰り支度の島八段が出て来た。さっき長考していたから、まだまだと見ていたが、急に終わったらしい。
「この間の観戦記はおもしろかった」
と私が声をかけると、「ありがとうございます。将棋が素晴らしければいい観戦記が書けるんです。終盤は見ていて私の体がふるえましたよ」。
そんなことを話していると、脇八段が来て、島八段と出て行った。
王座戦の先崎学八段対村山慈明四段戦は、島八段をして、今年度のベストスリーに入る激戦、といわしめたほどのもので、私も新聞を見ていて同じように思った。
それに付けた島八段の観戦記もうまく、三転四転の後、今度こそ勝ちを逃さぬぞ、とばかり、先崎君がとどめの金を打つとき、二度三度手に持った金をうら返してたしかめたあたりの描写が秀逸だった。
さっきは若者の将棋に苦言を呈したが、この村山四段の将棋を見ると、いく分か明るくなる。ただこういう将棋があまりにも少ない。20年前は年に何十局もこのくらいの激戦はあった。
(中略)
年が明けたころ、羽生好調、森内・谷川不調がきわだっていた。それと近藤五段が舞っていたのはご存知の通り。
不調が話題になるのは大棋士なればこそだが、二人のうち、森内名人は2月に入って復調の兆しが見えはじめ、3月になると本来の姿に戻った。だから名人戦はおもしろくなるだろう。
その森内名人がこの日はB級1組に昇級した木村一基七段と戦っている。棋聖戦の準々決勝だから大きな一番だ。
(中略)
森内対木村戦は、森内名人が攻めあぐんでいる、という評判だったが、うまく攻めをつなぎ、間もなく逆転したようである。
控え室には佐藤康光棋聖が姿を見せ、森内対木村戦を調べている。この将棋を見て、棋聖戦は、羽生か森内と戦うことになる、と思っただろう。
(中略)
森内対木村戦は大勢決していた。
15図は▲2三銀と打った場面だが、これが厳しい手で、控え室の面々も匙を投げた。
しかし木村七段は屈せず頑張る。
15図以下の指し手
△2四金▲5五馬△2三金▲1二飛△3二歩▲3三歩△2二銀▲3二歩成△同玉▲2二馬△同金▲3三歩△2三玉▲2二飛成△同玉▲4三飛成(16図)▲2三銀がひどいのは、金取りだけでなく、▲5五馬から▲1二飛があるからである。棋士中半分の人はここで投げるだろう。
木村七段は投げるどころではなく、これから小一時間も粘るのである。その手順は、単に指しただけ、といえるかもしれない。しかしそこが見所なのである。本欄のはじめに、羽生四冠のデビュー時の話をしたが、この木村七段の指し方は、あのころの羽生四段を思い出させる。
いちおう手の解説をすると、金取りを△4四金と受ければ、▲5六歩△6五飛▲7七桂で飛車が死ぬ。別に▲2六飛とされても指す手がない。まだ、△3三金も▲同馬と取られるまで。
で、△2四金だが、▲5五馬と取られ△同角と取れない。▲3二飛があるから。
泣く泣く△2三金だが、▲1二飛で、さらにひどくなった。
それでも木村七段は考える。よくこの盤面を眺めていられるものだが、これも20年近い昔に感じたのと同じだ。
やがて16図となり、今度こそ投げる、とみんなが言っていたが、図から△6九飛と最後のお願い(▲同玉は△2五角)をし、▲8八玉△5五角打▲9八玉△4二金▲3一銀△2三玉▲3四金まで指し、一分の秒読みがはじまったところで、木村七段は投げた。
この将棋を若手棋士全員が見るだろう。そのとき、将棋はここまで指さなければならないのだ、と感心することを願うばかりである。
(以下略)
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「序盤は村山に聞け」と言われている村山慈明七段も、中終盤の基礎力がもともとあった上での「序盤」であることがわかる。
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木村一基八段は、奨励会時代、三段から四段になるまでに6年半、二段から数えると9年かかっている。その間には大きな苦労があったが、四段昇段後から猛烈に勝ち続け『高勝率男』と呼ばれようになる。
”千駄ヶ谷の受け師”と呼ばれる受け、そして粘り、木村一基八段の若い頃の苦労、鍛錬が形となって現れているということだろう。
そして、それが木村将棋の魅力の一つとなっている。
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「新。対局日誌」のページに載っている森内-木村戦の写真に、「粘りを持ち味とする木村七段(でも本人は納豆が嫌いだそうです)」と書かれている。
木村一基八段の師匠の佐瀬勇次名誉九段は、「納豆を食べれば将棋が粘り強くなるから」と、弟子に納豆を食べることを勧めていたという。
しかし、木村一基八段の粘り腰を見ると、納豆と将棋の粘りには因果関係は全くないということが分かる。