大山康晴十五世名人の自戦記「殿下の将棋 対 三笠宮寛仁親王殿下戦」

将棋世界1984年11月号、大山康晴十五世名人の自戦記「殿下の将棋 ―対 三笠宮寛仁親王殿下戦」より。

 全国中学生選抜将棋選手権大会が毎年開催されています。主催は社団法人天童青年会議所、天童市、社団法人日本将棋連盟ですが、毎日新聞社も応援してくれています。私は立場上、最高顧問になっていますが、この大会の一番誇りにしているのは、三笠宮寛仁親王殿下を名誉総裁に戴いていることです。

 殿下は大会の発展に大変熱意をおもちになっていられるようで、ご多忙中、とくに時間をさいてご出席くださっておたれます。

 私はことし病気にとりつかれ、出席できませんでしたが、去年の8月2日、殿下と会場でご同席したのですが、殿下とお手合わせねがうような雰囲気が盛り上がり、高貴なお方と初めて盤をはさむ事態になってしまいました。

 病気中、当時の様子を思い浮かべ、殿下の将棋をぜひみなさまにご覧願いたく、筆をとったしだいです。

 対局室には殿下と私、それにおつきの方二人いるだけで、他の人は遠慮ということのようでした。私が下座について待っていますと、殿下が見えられ、

「ふつうは、黙って私が上座だが、今日はどうかな」と殿下が言われましたが、ご様子がまことに気さくで明るかったものですから、私もつい口もとがほころび”どうぞ、どうぞ”と上座におつきになるようお願いしたわけです。

 では、と殿下はためらいなく上座につかれましたが、その豁達なご様子に私の気分も安らぎ盤に向かうのが楽しくなりました。

 それはとにかく、勝負の道はまた別なので、私が二枚落ちでお願いしたわけです。

ところ:天童市滝の湯ホテル
とき:昭和58年8月2日
▲三笠宮寛仁親王殿下
上手△大山康晴

(中略)

”穴グマ、やぐら囲いも指しますが、私は中飛車が一番好きで、得意にしているんです”

 とおっしゃりながら、すぐ▲5八飛と、中飛車を指されたので、私もほほえましい気持ちになったのです。

 余計な手を考えずに、まっすぐに、くったくのない態度で手を進められるところに、高貴な方の将棋身上が見受けられたからです。

 私も脳天唐竹割りは困るので、二枚銀を活用して備える方針をとりました。

1図からの指し手
△4四歩▲5七銀△4三銀▲4八玉△7二金▲3八玉△4二金▲4六銀△5二玉(2図)

”直感で早指しにいくのが好きです”と殿下はおっしゃられましたが、▲5七銀の進路をはっきりさせないで、▲4八玉から▲3八玉と、玉固めを先にしたのには鋭い直感力の上にうまさも感じとられました。

 序盤のうちは、様子伺いをする余裕が大事なコツの一つなのです。

 私の△4二金を見て、殿下は▲4六銀と進路を決められたのですが、▲6六銀と出るのは角道をふさぐので嫌われたように思われました。

(中略)

3図からの指し手
△8四歩▲9六歩△9四歩▲1六歩△1四歩▲6六角△7三金▲7七桂△6三玉▲8六歩(4図)

 端歩を突き合っているとき、のんびりムードで進行しそうに考えていたが、殿下の鋭い一撃▲6六角を見て、私はあわて気味に△7三金と、△8四歩を守ったのです。よく考えれば、△8三金もあったわけで、ここはもうすこし掘り下げるべきでした。指し手の緩急を心得るのは、大事中の大事ですが、殿下はそのへんの呼吸をよく身につけていらっしゃるのに感心させられました。

 私は、△6三玉と、玉までも動員して、殿下の攻勢に備えたわけですが、殿下は▲7七桂で△6五歩を防ぎ、▲8六歩と突いて▲7七桂を攻めに活用するする方針をとられました。

 全く抜かりない指し方で、私も苦戦に追いやられる覚悟をしました。

4図からの指し手
△3四歩▲8五歩△同歩▲同桂△7二金▲8八飛△8三歩▲8四歩△同歩▲同角(5図)

 私は8筋方面の守りを固めたいのですが、よい方法がありませんので、△3四歩から△3三桂ととんで、▲4六銀の圧迫を狙いました。

 しかし、殿下は目もくれず▲8五歩と突進を開始され、▲8八飛と転換して、一連の構想が実現したのにご満足の様子でした。▲8四歩の追撃は構想に実を結ばせる攻め手で、全くゆるみが見えません。二枚落ちは、私にとってちょっと重荷だったかな、とも思いました。

5図からの指し手
△6二銀▲7五歩△8三歩▲6二角成△同玉▲7四歩△5三金▲7三銀(6図)

 ▲5一角成は許せませんから、△6二銀と防ぎましたが、△5二金もあるので、比べ読みをしたのですが、△5二金は6三玉の退路をふさぐので△6二銀を選びました。

 殿下は、すぐ▲6二角成でなく、▲7五歩と細かいアジの攻めをつくり、△8三歩を見て、▲6二角成から▲7四歩の攻め形を作りました。

 攻めがお好きのようでも、単調に流れないのには困らされました。△5三金は、△6三金左の守りをつくる狙いでしたが、殿下にゆるみなく▲7三銀と、急所の一撃を打ち込まれて、苦戦を認めなければならなかったのです。

6図からの指し手
△同桂▲同歩成△同金▲同桂成△同玉▲7四歩△同玉▲7五歩△7三玉▲7四金△6二玉▲8三飛成(7図)

 ▲7四歩から▲7五歩は見本的な寄せ方で、議論の余地がないのです。△7三玉で△7五同玉は、▲8三飛成と成り込まれて、私に入玉の望みがないのですから、すぐ負けになります。

 二枚落ちで、下手にうまく指されると、こんなに追い込まれるのは普通ですから、これからが上手の腕の見せどころと、がまんしたわけです。▲8三飛成として、殿下は”もう負けはなし”の自信を持たれたことでしょう。

7図からの指し手
△5二銀▲8二竜△5一玉▲7三金△4二玉▲9一竜△3三桂▲6二香△4五歩▲5七銀(8図)

 殿下が▲7三金、△4二玉としてから、▲9一竜と取ったのはうまい呼吸でした。▲7三金がすぐ攻めに役立つからです。しかし、▲6二香が、すこし重い感じの攻め手なので、もうひとふんばりと抵抗を続けました。

8図からの指し手
△7七角▲6一香成△9九角成▲6二成香△2四香▲2八銀△3五桂▲5八金上△4四馬(9図)

 △7七角は、9九香を取って△2四香と反攻に使い、△4四馬と引きつけて、攻防に役立てる狙いでした。

 殿下が守りに手を抜かれるなら、△2七香成で、一気に逆転に望みをつないだのですが、▲5八金上の守りで、すべてがはかない望みとなりました。

9図からの指し手
▲5六桂△5五馬▲5二成香△同金▲4四銀△7七馬▲5三歩△同金▲同銀成△同玉▲5一竜  
 までで、寛仁親王殿下の勝ち

 ▲5六桂から▲4四銀は急所を心得た攻め方で、万全というほかはありません。こんなにうまく寄せられては、上手の腕もぐったりとなりました。

 ▲5一竜以下はやさしい詰めですから投了の時期といえます。いいところなしに敗れた一戦として、永く私の心に残りそうに思います。

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大山康晴十五世名人が1回目のガンの手術から退院した直後の頃に書かれた自戦記。

寛仁親王(1946-2012)は今上天皇の従弟にあたる。

皇室の棋譜が載るのは極めて珍しいケース。

駒落ちで、駒落ち定跡に拘ることなく、平手の自分の好きな戦法で戦って下手が勝った非常に良い事例だ。

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4図からの攻めと5図からの▲7五歩~▲6二角成に、寛仁親王の強さが特に表れている。

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大山十五世名人が出席できなかったこの年(1984年)の全国中学生選抜将棋選手権大会で優勝したのが瀬川晶司少年だった。

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「脳天唐竹割り」はジャイアント馬場さんの得意技で、相手の脳天に垂直にチョップを打ち下ろすというもの。

突然プロレスの技の名称が出てくるところが新鮮だ。

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寛仁親王は東京・将棋会館で観戦されたこともあった。

将棋世界1981年12月号、「メモ帖」より。

殿下ご来館

 王位戦最終局の10月2日、ヒゲの三笠宮寛仁殿下が将棋会館に観戦にいらっしゃった。以前、大山会長が三笠宮邸にお伺いしたとき「御観戦などいかがですか」とお誘いしたのに応えてである。

 黒塗りの大型車とガードマンの車が午後2時到着。中原大山戦をごらんになったあと名人挑戦リーグの二上大内戦では、そばに座って両対局者に助言(?)。予定を1時間すぎても帰邸なさらず、ガードマンも代々木警察の刑事も右往左往であった。

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寛仁親王はかなりの攻め将棋だが、今上天皇もすごい攻め将棋だったという。

今上天皇と将棋