将棋世界1976年1月号、山本享介(天狗太郎)さんの「すばらしきかな祭典 ー第1回『将棋の日』の集いー」より。
〔8,000人の集い〕
11月17日。空は澄み切っていた。
午後2時、東京・蔵前の国技館に着いたとき、長蛇の列が巨大な建物を取り巻いていた。瞬間、「ああ、よかったな」と私は胸を撫でおろし、ファンの列に向かって頭を下げた。
私ごときが、こうして言葉を綴るのはおこがましい。私とて、この祭典にファンとして参加した一人である。ただ私は「将棋の日」の制定について意見を求められたことがあったし、ここまで行事を盛り上げてきた「裏方」の苦労を垣間見ていたからである。
連盟控え室に入ると、原田泰夫八段のにこにこ顔があった。二上達也九段も、にこやかに笑っている。裏方の総指揮をとる芹沢博文八段の姿は見えなかった。その日も「裏方」に徹して、楽屋裏で指揮をとっているということであった。
会場に入って驚いた。1万人を収容するという国技館は、解説用の大盤をしつらえた向正面を除いては、ぎっしりファンが詰めかけている。2階席にもファンの姿が見える。はじめ、入場者は6,000人ときいた。午後3時近くになると、さらにファンが増えて、「これ、8,000人ですな」と国技館専属の売り子が、ぐるりと場内を見渡してうなずいた。
ファンとして参加した私は、ほかに二つの役目を持っていた。NHKが、この日の行事を全国にテレビ放映するについて、「将棋の日」の由来を語る刺身のツマみたいな役を受け持っている。さらには、この日の盛況ぶりを記事にする取材者の任務を命じられている。そんなわけで、土俵際の砂被りに陣取る光栄に浴することとなった。
定刻の午後3時、NHK福本義典アナウンサーがマイクの前に立ち、将棋史に不滅の一ページを加える世紀の祭典ははじまった。
〔功労者の晴れ姿〕
午後3時24分。羽澤ガーデンで十段戦第2局を指し掛けにして、本日の主役、大山康晴九段と中原誠十段が姿を現して一段と大きな拍手がわきおこった。
来賓の日本船舶振興会 笹川良一会長は、中央の土俵に上がり、「私は将棋は指さないんだが……」と場内を笑わせてから、「将棋を通じて、礼と忍を養ってほしい」と日頃の持論を開陳した。
新聞会を代表して㈱共同通信社の成田安賢常務も祝辞を述べた。つづいて、棋界功労者として木村義雄十四世名人と渡辺東一名誉九段(名誉会長)が土俵に立った。
木村さんは脳血栓をわずらい、1年の闘病生活で病魔を克服した。そんなことも打ち明けながら、「対局は医師に禁じられてますが、もうすこし健康が回復しますれば……」と寂しさのなかにも闘志をのぞかせた。
渡辺さんは、この日に「名誉九段」の称を受けた。木村さんは、渡辺さんと一緒に表彰をうけることが、ひどく嬉しそうである。紋服に威儀をただした二人の名棋士は、すでに銀髪の翁である。棋界の立役者として、片方は裏方として棋界隆盛の礎を築いた。年輪を刻み込んだその顔は、私には大正・昭和の苦闘史を物語るように見えた。
王位就位式がはじまった。タイトルを防衛した中原王位と挑戦者の内藤國雄九段。就位式を公開の席上で行うのも異例である。本日は、すべて異例づくめの行事が繰り広げられ、ファンの方々は「いいぞ」「立派だな」と讃嘆して、喜びを共にした。
講談の神田山陽師の司会で、現役の名人、九段の紹介がつづいた。
中原誠名人、大山康晴九段(永世名人)、塚田正夫九段、大野源一九段、二上達也九段、加藤一二三九段、内藤國雄九段。ファンとすれば、升田さんと丸田さんの姿が見えないのは、ちと寂しかったのではなかろうか。
相撲なら「三役揃い踏み」というところか。こちらは三役ならぬ横綱・大関の勢揃いである。各人の棋歴の紹介が終わって山陽師は、それぞれに趣味について質問を差し向けた。
中原「音楽より、いまはゴルフに……」
大山「強いと言ってもらえるのは碁だけ」
塚田「将棋を指すのが一番楽です」
大野「何がって、一番女房に強いんです」
二上「音楽のほかに、もう一つが……」
加藤「音楽より、いまは読書です」
内藤「レコード会社からスカウトされた、いうのはデマですので……」
記念式典が終わり、向正面の大盤では原田八段が解説、山本武雄八段(陣太鼓)が聞き役となり、指し掛けまでの指し手を並べて見せた。
「でっかい盤だな」
私のうしろから声が挙がった。あとで、NHKの人にきけば、「幅は3.6mぐらいだと思いますが……」ということであった。さすれば、駒はすくなく見積もっても30cmぐらいはあるだろう。これまた、日本一の大きな盤と駒である。
駒の操作はどうするのか。先手側は長身の奨励会員が務めた。後手側は、長方形の車椅子の上に奨励会員が立っている。滑車でもついているのか、二人の若者が押すと、するすると盤の前に進み、巧みに駒を動かした。
日本一の大きな盤と駒は、最後部の2階席からでも。「でっかく見えましたよ」と口々に驚きの声を放っていたという。
〔十段戦公開〕
盤も駒も脇息も座布団も、対局場の羽澤ガーデンから持ってきた。いく時間か前の静かな対局室は、いま、土俵中央にかわり8,000人の目が二人に注がれている。
対局者は、私が見た限りでは、いつもの大山・中原戦と変わりなかった。大山九段はすこし背をまるめ、中原十段はすこし首をかしげて盤上を凝視。立会人の金易二郎名誉九段と萩原淳九段のほうが緊張しているらしかった。午後5時から30分の公開対局は、こうして静かに、厳粛な雰囲気のなかで戦いを開始した。
画期的な公開対局である。両対局者が「将棋の日」に華を添えるために、すすんで公開を申し出たときいた。
▲5七銀△3二飛▲4六歩……
大山九段の手で封じ手となった。午後5時40分頃、大山さんは、すぐに決断して、盤をはなれて封じ手を書き込んだ。
この30分は、8,000人のファンも、しわぶき一つ立てず、国技館は林のごとき静けさに包まれていた。封じ手が終わった瞬間、万雷の拍手がわきおこった。
福本アナウンサーは、土俵をおりた両対局者に近づいて、感想を求めた。
福本「短い時間で決めた封じ手は、悔いのない手になりましたか?」
大山「悔いのない手を封じたつもりです」
中原「対局がはじまると冷静になりましたが、はじめに就位式で土俵に上がったときは、8,000人のファンを見て緊張しましたね」
公開対局の最中に、私は福本アナウンサーから「将棋の日」の由来をきかれた。限られた時間であり、話下手もあって、テレビを御覧の方には要領を得なかったのではないかと案じている。たまたま、「将棋の日」を前にして「将棋事始」と題する一文を草した。将棋の歴史と、その文化性を知って戴くために再録して見ることとした。
昭和48年の夏、越前朝倉氏遺跡から将棋の駒177枚が出土した。なかに、酔象の駒が1枚まじっていた。酔象は、いまの将棋が生まれる以前の古将棋に用いた駒である。
それは文献の上では知っていたが、遺跡を訪れて現物を目にしたとき、大げさにいえば、私は感動した。400年も土中に眠りつづけた1枚の駒が、謎ときの手掛かりになると思ったからである。
いい伝えによれば、中国から日本に将棋が輸入されたのは8世紀である。渡来した将棋がどんなものであったか、知るよしもない。日本において、将棋の初見は康治元年(1142年)、悪左府の名で知られる藤原頼長が大将棋を指したという『台記』の記述である。古将棋は大別すれば6種となるが、実際に行われたのは大・中・小将棋の3種でないかと私は見ている。平安時代に大将棋(駒130枚)、その後に中将棋(駒92枚)、さらに下って室町時代に小将棋(駒46枚)が誕生した。
朝倉氏遺跡で酔象駒が出土したことは、小将棋がさらに簡略化され、最後に酔象をのぞく小将棋(いまの将棋)に移行した経路を暗示する。
天文年中、後奈良天皇が古式の小将棋から酔象をのぞかせた、という口伝がある。その伝えも、にわかに現実味を帯びてきたようである。
いまのように駒を再使用するのは、世界の将棋のなかで日本将棋だけが持つ面白いルールである。異民族をまじえぬ日本人の合戦は、大将を討ち取れば配下はわが勢力に加えた。そうした歴史の背景のなかで、日本独特のルールが案出されたのではないか。そのルールのかげに、日本民族の「おおらかさ」を見る思いがする。
日本将棋の駒の名称は、玉、金、銀、桂、香と珍宝佳品の形容がつく。もとは、みやびやかな宮中の遊びであった。江戸時代に大名の姫君が嫁ぐとき、碁・将棋・双六の三面を持参した。雛祭りにも、三面を飾る風習があった。それらも、将棋が王朝貴族の欠かせぬ教養であったことの名残りではないだろうか。
室町時代から安土桃山時代になって、将棋の担い手は武将の手に移った。江戸幕府を開いた家康は、将棋のゲームを「戦陣」に見立てた信長とは逆に、戦国武将の荒々しい気性を柔げるために「娯楽」として推奨した。
そのときより、将棋は幕府の庇護のもとに繁栄を約束されている。三代将軍家光は年中行事の一つとして御城将棋を催した。その式日が11月17日と定まったのは、八代将軍吉宗の代からである。
将棋が庶民の娯楽として人気を博すのは、江戸後期である。川柳、狂歌、草双紙ににぎやかに登場する。縁台将棋も盛んになった。
将棋が庶民のものとなるころ、幕府の崩壊と共に御城将棋の行事は消え去った。百十余年の歳月がすぎ、いま将棋界は由緒ある11月17日を「将棋の日」として復活させた。いまほど将棋愛好家が増え、伝統文化を背負う将棋に対する認識を深めた時代はない。
現代人は将棋のゲームを「頭の体操」と呼ぶ。駒を再使用する日本将棋は、変化は限りなく、尽くることを知らぬ雅趣を秘める。500年の遠い昔、この知的ゲームを発案した日本人の頭脳はすばらしい。
将棋史を繙くことは、また私にとって日本人の心を尋ねる謎ときともなるわけである。
〔人気わく連将棋〕
休憩をはさんで、ファン待望のプロ・アマ連将棋の時間となった。
紅組
二上達也九段・有吉道夫八段・三上博司(アマ名人)・成田英二(高校個人優勝者)
白組
加藤一二三九段・大内延介八段・永森広幸(大学名人)・玉井慎一(職団戦優勝マルケーチーム優勝)1手30秒、5手指すと交替という文字通り、プロとアマが仲良く手を結んでの連将棋である。
立会人に丸田祐三九段が顔を見せた。大盤解説は内藤國雄九段と米長邦雄八段。ユーモアのなかに、ちょっぴり毒舌もまじえて、いつもながらの見事な役者振りを披露した。連将棋がはじまって、私は「指定席」をはなれ、ファンのなかにまじって解説に耳を傾けた。
8,000人のファンは、私には面識のない方々である。お爺さんもいる。お婆さんもいる。若い夫婦もいる。高校生も中学生も小学生も、土俵上に目を向け、指し手が読み上げられるたびに大盤を見上げていた。
8,000人の未知のファンのなかに、知人も数多くいることが判ってきた。私は取材を兼ねて、広い場内を飛び歩いた。
三協印刷の社長は、枡席に座っていた。「盛大で結構でしたね」という。
しばらく雑談して、2階席に上がった。とたんに肩を叩く人があった。旧知のF代議士である。
「感動の一字に尽きます。私、地元の者ですから、来年は何とかお力添えをさせて戴きたいものです」
それから、幾人の人と、今日の盛況について語り合い、喜びあったことだろう。
場内を歩き廻るうちに、もう一度、テレビに出演する約束を忘れてしまっていた。気がついたときには、連将棋が終わり、福本アナウンサーは指定席に戻っていた。私の不注意からテレビの画面で「将棋の日」の盛況の喜びを語ることをできなくなったことを関係者に深くお詫びする。―いいわけになるが、テレビ出演の任務を忘れてしまうほど、私は8,000人のファンの集いのなかで興奮してしまっていたようである。
閉会の辞もすみ、ファンは、「また来年のこの日に!」と名残を惜しみつつ、列をなして入口に向かって歩き出した。私は正面土俵に上がり、いまや人影もない巨大な建造物の内部を眺め渡した。
「8,000人のファンが…」
まだ私は興奮しているようであった。
夜8時すぎ、ひとりで国技館を出た。暗い夜空に美しく星が輝いていた。
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1975年11月17日は月曜日だった。
無料とはいえ、週休2日にはまだ全くなっていなかった時代の月曜日という悪条件の中、よくぞ8,000人もの来場者があったものだと思う。
インターネットのない時代に、この日にイベントが行われることの広報も大変だったことだろう。
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国技館で「将棋の日」イベントを行うことの発案者であり、実働部隊の長であった芹沢博文八段(当時)。
芹沢博文九段の著書によると、国技館の借り賃が150万円であるところを値切って50万円にしてもらい、50人のアルバイト・将棋連盟職員への臨時手当もろもろで総計600万円の支出であったと書かれている。
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「先手側は長身の奨励会員が務めた。後手側は、長方形の車椅子の上に奨励会員が立っている。」
先手側の駒の操作を担当したのは田中寅彦二段(当時)、後手側の担当は武者野勝巳三段(当時)だった。
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連将棋の紅組で出場していた高校個人優勝者の成田英二さんは、後に大崎善生さんの『将棋の子』の主人公となる成田英二さん。
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翌年からは「将棋の日」イベントは将棋会館で行われるようになった。現在のように各地で開催されるようになったのは1980年代から。
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山本享介(天狗太郎)さんは観戦記者であり将棋史研究者、作家。
1989年、宇野宗佑首相が誕生した時は、彦根高等商業学校時代の同級生ということで、新聞などで山本享介さんの名前が挙げられていた。
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山本享介さんの文章を打ち込んでいて感じたことは、本当に真面目過ぎて純粋で学者肌な方なんだな、ということ。
だから、もう一度、テレビに出演することを失念してしまったのだろう。
私のような俗物なら、絶対に忘れない。