将棋世界2004年4月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 五十嵐豊一九段」より。聞き書きは木屋太二さん。
将棋大成会は麹町一番町にあった。いまは日本テレビが建っている。敷地は約600坪。塾生は掃除するのが大変だった。そこから師匠の家に行く。奨励会の成績を報告するんです。
関根先生のお宅は麹町三年町で、国会議事堂の裏にあった。隣は米内海軍大臣の家でした。私は麹町一番町からバスに乗り、麹町三年町の”議事堂前”で降りた。関根邸は質素な造りで、庭には池があった。関根先生は貫禄十分だが、ひょうひょうとした人物だった。
私が、さえない成績を報告すると、「負けろ負けろ、負けて強くなれ」と言い、こづかいをくれた。「真剣は素人とやっちゃだめだ。仲間とやれ」とも言われた。やわらか味のある、とてもいい先生でした。
(中略)
五十嵐九段には屋敷伸之八段という優秀な弟子がいる。この弟子は師匠思いで、盆、暮になると必ず好物の日本酒を送ってくる。一万円の一升瓶だ。「ありがたいが高級な酒は、ふだん飲みにくい。屋敷君には五千円のを二本にしてくれと言っているんです」と九段。
(以下略)
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将棋世界2004年6月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 宮坂幸雄九段」より。聞き書きは木屋太二さん。
奨励会へは昭和23年6月に入った。塚田先生のところに行ってから1年が過ぎていた。
(中略)
連盟の事務所は水道橋の後楽園にあった。野球場の観客席の下です。対局は麻布の若松寺で行った。そこの住職は勤めていて、あまりいない。ふだん、あいているということで借りることが出来たらしい。焼けたあとに建て増したようで新しかった。
対局はお寺の本堂を使った。6畳と8畳の2部屋です。大体、4局行われるのだが、それを2人の記録係が同時に2局取った。物資の乏しい時代だからストップウォッチはない。記録係は秒針の小さい腕時計ひとつで2局とるのだから忙しい。
(中略)
その頃の棋戦は順位戦しかなく、年間に5、6局しか指せない棋士も相当いました。そのせいか、時間いっぱい使う人が多かった。
升田幸三さん(実力制第四代名人)は八段になったばかりで、寝袋を持って対局場にやってきた。しかし慣れないのか、「こんなものやってられない」と起き上がり、私に、「君、一丁やろう」と言う。私は棋譜を必要な枚数書いているところだった。手合は飛香落ち。私が駒音高くビシッと指すと升田さんは、「駒音は強いけど将棋は強うないの」と言って笑う。とにかく、いろんなことを言う。口が悪い。こちらはあおられる一方で将棋はバタバタやって、すぐ負けた。
そのあと升田さんは他の棋士と話を始めた。大山康晴さん(十五世名人)との名人挑戦者を賭けた昭和23年の高野山の決戦のあとで、升田さんは順位戦のことをしゃべっていた。「必勝の将棋をバタッとやって負けた」とか「将棋は考えにゃならん」と言っていた。私が「考えなかったから負けたんですか」と聞くと、「この小僧、何ぬかす」と怒られた。「へらず口たたいて、勝てんかったと言わしてやる。もう一番だ」と、さらにもう一局指してくれた。普通なら生意気な少年ということで頭をコツンとたたかれるところだが、よく指してくださったと思う。
「お前は誰の弟子だ」「塚田先生です」「内弟子か?」「通いです」「客弟子か」。この升田先生とのやりとりも、よく覚えている。客弟子という言葉が記憶に残っている。良い思い出です。
(中略)昭和24年6月に西荻窪の原田泰夫八段(九段)のお宅で奨励会を再開した。
(中略)
やがて将棋連盟は中野に移り、事務所と対局場を一本化した。ここは早稲田通りから少し入ったところで、JRの中野と東中野の間。相撲の照国道場を買い取った、と聞きました。1階は留守居役の奥野基芳六段(八段)の部屋と棋士のたまり場、それに応接室。2階は6畳と8畳の対局室。庭は広く、土俵のあとがありました。
(以下略)
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倉島竹二郎さんの著書を見ると、将棋大成会は昭和11年頃は青山北町(現在の北青山)のひなびた屋敷、その後、赤坂表町(現在の元赤坂、赤坂4、7、8丁目の一部)の新築まもなくの堂々たる邸宅に移ったと書かれている。そこから更に麹町一番町へ移転ということであれば、現在なら地価が非常に高い場所ばかり。
なおかつ、関根金次郎十三世名人の自宅が麹町三年町(現在の永田町、霞が関3丁目、九段南2丁目)で国会議事堂の裏だったというのだから、ものすごい場所に住んでいたということになる。
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日本テレビ旧本社(現在の日本テレビ麹町分室)は番町皿屋敷があった場所という説もあるが、皿屋敷伝説(大事な皿を割ったとして咎められた女性が井戸に身投げし、その後、夜ごとに井戸の底から皿の枚数を数える女性の恨めしい声が聞こえてくるようになる)は全国に存在するようで、真偽の程は不明。
番町皿屋敷から徒歩10分ほどの場所が「四谷怪談」の舞台、番町皿屋敷から徒歩5分ほどの紀尾井坂が「のっぺらぼう」の出現地ということで、この一帯に怪談話が集中している。
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将棋大成会は、戦況著しく悪化し中期的に対局の目処が立たなくなった時点で財産を清算し、お金を会員に分配したとどこかに書かれていたのを見た記憶がある。
どちらにしても麹町は引き払い、戦後、日本将棋連盟となって活動を再開する。
戦後直後の日本将棋連盟は後楽園球場にあったわけだが、後楽園にあったのは事務所だけで、対局場は別だったことがわかる。
麻布の若松寺は、現在の南麻布3丁目にある日蓮宗のお寺。高級住宅街にあるお寺だ。
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日本将棋連盟が東中野から千駄ヶ谷へ移転するのは1961年のこと。
たまたまではあるが、青山北町時代の将棋大成会本部にやや近い場所に戻ってきたということになるのだろう。