将棋世界1986年12月号、内藤國雄九段の「自在流 スラスラ上達塾」より。
角力界では千代の富士が一人、気を吐いている。かつて大鵬とか双葉山とか、その時代で卓越した名力士がいた。
しかし古今無双の力士となると雷電為右衛門に誰もが軍配をあげる。
引退したのが44歳という、これだけでも正式外れだが、その間勝率が九割六分二厘であった。溜め息が出るような強さである。
話はこれだけでは終わらない。
雷電が55歳になった時、現役の横綱に三番勝負を挑まれたが、三番とも横綱を投げ倒したというのである。
しかし残念ながら、雷電の強さについては想像の域を出ない。音楽の楽譜のように、将棋の棋譜のように、正確に再現してみる手立てがないからである。
そこへくると将棋は有り難い。
先人が棋譜を残してくれたおかげで、初代宗桂が囲碁の名人と指したお城将棋や棋聖天野宗歩の指した将棋を一手の違いもなく再現することが出来るのである。
それは音符のおかげでバッハやベートーベンの音楽を再演できるのと同じである。
欧米や中国では将棋(チェス)をスポーツと同じ扱いにしているというが、この点将棋はスポーツより音楽に近いといえるだろう。
名局(名曲)を繰り返して鑑賞出来る所は同じである。もし将棋が勝敗と手数だけの記録として残るものであれば、角力とか陸上競技とかいったスポーツと同じになる。
(以下略)
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雷電為右衛門(1767年-1825年)は江戸時代の力士。
もちろん、当時の映像などがないので、内藤國雄九段が書いている通り、雷電の強さについては想像の域で語るしかない。
これは、古代中国の「傾城の美女」「傾国の美女」と呼ばれた女性たちがどれほど美しかったのかを想像するのと同様かもしれない。
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しかし、将棋には棋譜、音楽には楽譜がある。
多くの人は音符だけを見ても何が何だかわからないが、演奏家の演奏によって曲の良さを知ることになる。
将棋も棋譜だけを見ても意味が理解できないが、観戦記者やネット中継記者が演奏家の位置付けとなる。
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「この点将棋はスポーツより音楽に近いといえるだろう」
あくまで棋譜と音符という記録面で近いということになる。
どちらにしても、音楽と将棋は似て非なるものだし、スポーツと将棋も全く別物だと思う。