「こんな高い対局料、後にも先にもないよ」

将棋マガジン1984年7月号、花村元司九段の「故灘蓮照九段を偲ぶ」より。

 私が専門棋士として木村義雄先生に入門したのが昭和19年。事実上、21年度から順位戦対局。6年間の歳月が流れて27年、A級八段となる。超早指し棋士と評され、有頂天の頃でした。関西に籍ありて彗星の如く怪童早指し天才棋士が現はる。

 此の男こそ灘照一氏。私より10歳年下の青年、1年遅れて28年A級八段となった。東に花村、西に灘、両者早指し20年間の初戦が展開されたのが28年。A級1年生と2年生、33歳と23歳、血気盛んでした。

 読売新聞主催九段戦掲載当時、もう一つオール八段戦が行われました。午前10時より対局、10時30分には勝敗がついた。

 持時間各7時間。ビックリしたのが観戦記者、「早いに決っているが、11時に来れば感想戦に間に合う」と思ったそうです。

 対局料が各15,300円。私が3分の消費、1分間5,100円、「こんな高い対局料後にも先にもないよ」とこぼす事こぼす事。当然と思うが、知らぬ顔の半兵衛、二人の出会いと相成った。

「お互いに頑張って、早指しの面目に掛けても一世風靡仕様じゃないか」と誓ったものです。お蔭で以来A級17年が灘九段、15年が私、48年迄活躍したものです。

 産経新聞主催早指し王位戦で大山名人に2回挑戦せしが、1勝2敗、1勝2敗で惜敗した。直後、棋聖戦移行前に灘八段(当時)も早指し王位で大山名人への挑戦権を握り1敗後2連勝。早指し王位を獲得は立派な実績で、先行されたくやしさも多少あったものです。此の灘氏の偉業が私への励みとなり、A級在位15年、感謝する次第です。

 さて、二人の間の戦績はどうか。勝ったり負けたりシーソーゲーム。「花ちゃん一杯行こうか」私は酒は飲めないが、心良く酒席につき合う。

 食べるだけの私、飲む事強し酒豪。さあそうなると弁舌鮮やか。仏道に帰依して蓮照と改めた。灘氏、 勝っても負けても当夜は将棋の反省 は一切しない珍棋士と云えましょう。

「灘君よ、西の灘、東の花村と観戦記者は云うが、俺は面白くないよ」と問う。

「当り前だよ、花ちゃんより俺の方が若いだけ強いんじゃないかな」酒の着にされるは常々で、斯く如き自惚れが自信を得る秘訣かな、仏智直感のひらめきは随所に現われました。

 52年灘九段誕生。其の後糖尿病に冒され、対局も思うに任せず、3組に後退の止むなき状態を思え ば、私なりに健康を優先的に未だに現役にとどまり、早指し棋士の蛮勇を発揮する信念です。

 安らかに眠り見守り下さい。

 昭和59年4月26日、57年の生涯を終える計報。まさか、と一驚したものです。平均寿命に16、7年も早い旅立ち。我が友よ、 ライバルよ、棋魂永遠に。

 現世棋界の隆昌守護を希い度く、偽ざる心境であります。

 只々御冥福を祈ります。

 南無妙法蓮華經

 合掌

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花村元司九段による追悼文は、花村流の独特な味があり、非常に心に残る。

この2年前の、北村秀治郎八段への追悼文も印象的だ。

花村元司九段が書いた追悼文

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花村元司九段と灘蓮照九段の共通点は、早指しであることと、駒落ち上手の名人であったこと。

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全く初めての人が花村元司九段灘蓮照九段の二人が並んでいるところを見たら、10人中10人が、僧侶なのは花村九段の方だと思うことだろう。

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竜王戦の前身である十段戦の前身の九段戦は、1950年から1961年まで行われていた。

花村九段が八段になったのが1952年で灘九段が八段になったのは1953年なので、10時30分には終わっていた対局は、1953年から1961年の間のいずれかの年に行われたことになる。

対局料が各15,300円。1分あたり5,100円。

この対局が1953年に行われていたとすると、1953年の大卒初任給(公務員)が7,650円なので、ちょうどこの倍の対局料。

1961年に行われていたとすると、1961年の大卒初任給(公務員)が12,900円なので、初任給のほぼ1.2倍。

現在の大卒初任給(公務員)がほぼ18万円ということなので、この時の対局料は現在の価値で216,000円~360,000円になる。

1分あたりは72,000円~120,000円の計算。

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数字だけを見ると悪くない対局料だが、この頃は棋戦の数が少なく対局数も少なかったので、これでも厳しかったかもしれない。