将棋マガジン1987年6月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。
将棋は小野(敦)が飛車を振って11図のようになっている。振り飛車は得意でないはずだが、羽生は振り飛車破りがへただ、のデータがあるのだろう。
11図からの指し手
▲3七銀△7四歩▲3八飛△1二香▲3五歩△同歩▲2六銀△4五歩▲3五銀△8八角成▲同玉△2七角▲3七飛△4九角成▲4五歩△5五歩(12図)後手の△4二金型が変わっているが、これは△5三金から△6三金と玉を固める含み。▲4五歩の仕掛けは、△同歩と取り、▲3三角成△同金で心配ない。△3二金型にくらべて、働いた形なのである。
第一の見所は、羽生がどのように仕掛けるか、だが、▲3七銀から▲3八飛は、なんとなく師の二上を思わせる指し方。飛車が回るなら、先に▲3八飛だろうし、▲3七銀と出たからには、もう一つ▲2六銀が普通であろう。なんとなくちぐはぐな感じなのが似ている。
ともかく▲3五歩と仕掛ければ、小野は△4五歩でさばき合いに持ち込もうとする。角交換から、△2七角と打って、小野は「自信があった」という。
たしかに、△5五歩と突いた12図は、振り飛車がさばけているようである。こういった場面を見れば、まだ将棋を知らない(いやな表現だ)の評も出てこようが、そんなのは羽生の資質となんの関係もない。
12図からの指し手
▲4四歩△3二銀▲3四銀△5六歩▲6六銀△3六歩▲4七飛△5八馬▲同金△5七金▲4三歩成△同銀▲同銀成△4七金▲5二成銀△同金寄▲4七金(13図)森安が小野について「体力がありそうだし、ジロリと睨む眼つきに迫力を感じた」という意味のことを書いていたが、本当は、温厚な性格だし、眼つきも、どちらかといえばやさしく、ひ弱な感じがするのである。それが、恐ろしげにうつるのは、森安が不調だからである。
さて、▲4四歩に、△3二銀。「弱気だったですかね」と小野は首をすくめた。△5四銀と進むに決まっているようなところだが、逆に引いて、弱わげに見せかけて、シンはしっかりしているのが小野の特徴である。へこんでも、△5六歩と取り込めば十分と見たもので、その判断はまちがっていなかった。しかし、その後の指し方がわからなかったらしく、△3六歩▲4七飛のつぎ、△3八馬か△5八馬か迷ったという。
結局、▲4三歩成を怖がって、△5八馬と過激な方を選んだが、正解は△3八馬だった。
△3八馬に対し、▲4六飛は、△5三飛と受け、後に△2九馬の桂得を楽しみにして後手よし。だから、△3八馬に▲4三歩成だろうが、△同銀▲同飛成△5七歩成▲同銀△4三金▲同銀成△5七飛成▲同金直△4九飛で後手よし。
手順中、先手の▲4三同飛成が好手で、小野もそれがあるから、△3八馬をやめたのだが、調べてみると△5七歩成の手順があり、後手が指せる。
実戦は△5七金と打ち込む攻めがおそく、13図となっては駒損もしているから、後手いけないと小野はあきらめた。あきらめるのが早すぎるようだが、彼は羽生と己れとの、寄せの力の差を考えたのである。
13図からの指し手
△2八飛▲4八歩△2九飛成▲3一飛△3七歩成▲3五角△4四歩▲同角△5三銀(14図)もし、相手が羽生でなかったら、小野も粘っただろう。いつもいうことだが、強いと思われていると、ずい分得なのである。逆に強いと思われていた者が、あるとき、なんだ弱いじゃないか、と気がつかれたときの悲哀は相当なものだろう。だから、今名人戦を戦っている二人は、いい将棋を指して見せなければならないのである。
飛車を打ち合い、▲3五角と打って、羽生は寄せに入る。小野は△4四歩から△5三銀と受けたが、単に△6二銀なら、まだまだたいへんだった。
14図からの指し手
▲同角成△同金▲6二銀△同金▲7一銀△9二玉▲6二銀不成(15図)もちろん角が逃げたりはしない。▲5三同角成から▲6二銀は美濃くずしの基本手筋。これで決まった。
ただし、▲7一銀は▲7一角の方がよく、△7三玉▲8二銀△6三玉▲5四歩ならそれまでだった。局後これに気がついた羽生は、つまらぬミスをしたとばかり、ふくれていた。
それはともかく、15図も羽生らしい雰囲気は出ている。▲6二銀成ではなく不成が好手で、次に▲8一飛成△同銀▲9三金△同玉▲8五桂以下の詰みを見た一手すきになっている。
15図で小野はそれを防ぎ、△8五桂と打ったが、これがとんだ尻抜けで、先手玉が一手すきになってなく、▲8二金△9三玉▲7二金であっさり終わった。
「やっぱりだめだったか」小野がいうと、羽生が「△4一歩▲同飛成△8二銀で難しいですよ」と首をヒネった。
「そんなの、▲7一銀不成で全然ダメだろ」
「いや、次に▲8二銀成は△9三玉で詰みませんよ」
つまり、15図で△4一歩▲同飛成△8二銀と受け、▲7一銀不成△4七と▲8二銀成△9三玉、というわけ。
うそだろう、とみんなが寄ってたかって詰ましにかかるが、どうしても詰まない。こういったテクニックでみんなだまされるんだな、と一同感心したのだった。
(以下略)
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どの手が羽生マジックなのかを探すのが非常に難しい一局。
12図は、振り飛車党なら振飛車を持ちたい(振り飛車十分に見える)局面。
それが13図ではかなり先手が盛り返している。
△3八馬か△5八馬か迷わせるような指し方など、いろいろと伏線はあるのだろうが、自然な手が続いて、後年の羽生マジックらしい手は現れていないような感じがする。
強いて言えば▲6二銀不成(15図)が羽生マジックの雰囲気のある手なのだろうが、これも2手前に▲7一銀ではなく▲7一角と打っていれば必要のなかった手なので、羽生マジックとは意味合いが異なる。
粉砂糖のように羽生マジック成分が指し手の流れに淡くふりかけられているようなイメージの一局だ。