森信雄五段(当時)「相も変わらず私はわけの判らないことをやっているようだ。まあいいか」

将棋マガジン1990年7月号、森信雄五段(当時)の「忘れ得ぬ局面 忘れたい局面」より。

 ○月✕日のこと。

 午前10時カメラをかついで福島駅に向かう。

 今日はどの駅に降りようか、考えながら取りあえず切符を買って電車に乗り込む。

「ノダ、ノダ、次はニシクジョウ」

 そう言えば野田はまだ知らないところだ。降りてみよう。私は常に気まぐれ。

 西野田の街並は、戦災をまぬがれ明治の面影が残っている。その程度の知識はあったが、いざ歩いてみると、静かな下町のふんい気で、とにかく路地が多い。

 各家の軒先に鉢植えの光景も目につく。しばらく歩いている内に方角が判らなくなった。

 目に付いた喫茶店に入ると、客はおばあさんばかり5人。楽しそうに話をしている。

 来てよかった。洗練された都会を歩くより、私はこんなふんい気の街が大好きなのだ。

 再び歩き出すとサクを張りめぐらした空地が目に止まった。

 そばにいたおばさんに聞いてみる。

「ここは何ですか?」

「中央市場からの軌道の跡だよ」

 興味を魅かれた私は、「ちょっとだけなら、入ってもいいでしょうね」

「入ってもいいけど、サクがあって向こうは出られへんよ」

 サクを超えて、草とガレキの空地に入ると名も知らぬ小さな花がきれいに咲いていた。

 写真を撮りながら歩き出すと、確かに軌道の跡らしき枕木があった。

 空地に面した家々の前には、遠慮がちながら庭代わりに使われている鉢植えがある。

 そこで手入れしているおじいさんに、「この跡地はどうなるんですか?」とたずねた。

「知らない」ニッコリ笑顔でその返事。

「公園にすればいいのにね」

「そうだけど、このままでもいいよ」

 とうとう中央市場まで来てしまった。主婦らしい女の人に声をかける。

「この市場は一般の人でも入れますか?」

「もちろんですよ。でも今日は休み」

 先日、東京の築地の市場へ行ったが、私はあの息つくヒマもない混雑もまた好きなのだ。

 休みの日の市場は、人もモノも静止して、残されたゴミ溜まりがやけに目に付く。

 都会のエネルギーの裏返しのようだ。

 通りがかりの人に聞いてみると、普段は深夜でも休む間もないらしい。

 一回りすると警備員の人が寄って来て、「写真を撮ってくれるかなあ」

「いいですよ」カラーと白黒で2枚撮った。

 中央市場を出て、ある橋の所で写真を撮っていると、二人連れの男がやって来る。

「何を撮っとるんや。ウチの建物は撮るな」

「いえ、あの樹を撮ってるんです」

「何でや」

「あの樹の模様、面白いでしょう」

「何が面白いねん」呆れて去っていった。

 大阪には歴史を感じさせる、モダンな建物や橋が随所に見られる。そこにからむようなつるくさも、見ていて飽きない。

 しばらくいくと公園に出た。子供、学生、老人がそれぞれに、遊んだり、グランドを走ったり、鳩にエサを与えたりしている光景。

 一昨年、中国に行ったとき、公園で楽器を演奏している中で、なぜか「北国の春」を歌わされたことがある。

 普段は、まず歌うことのない私だが、そのときは後で拍手されて、素直にうれしかった。

 中国の公園は、毎日が祭りか縁日のようで、日が暮れてもなお、帰らない人が多い。

 私は、夕方、人が集まる公園に行くのを、毎日楽しみにしていた。暗くなると、日本から持って来た懐中電灯を使いながら話をする……。

 公園の隅に目をやると、将棋を指しているようだ。もちろん、ここは日本なので”将棋”。

 写真を撮らせてもらって、30分くらい黙って見ていた。「アッ、それはタダ」思わず声が出そうになったが、角が利いていて竜がタダですよ…。

 すぐ気付いたのか、すかさず「待った!」

 周囲のヤジ馬さんは、「わしら10級のもんでも、そんな手は指さんで」と冷やかす。

「今日は調子が悪いんや」とおっちゃん。

 しばらくすると、今度は相手の人が竜をタダで取られる(相手の人が少し強い)。

「お互い悪手ばっかりでんなあ」とご機嫌になったが、結局負けてしまった。思わず残念と、私もいつのまにか身を乗り出していた。

 話は変わって、インドの公園は、物売りがやけに多くて、とてものんびりしていられない。

 チャイ(紅茶)、クツ磨き、耳そうじ、そしてなぜかムチ売りなど。

 デリーの公園でのこと。クツ磨きの少年に仕方なく3ルピーで頼むことにした。

 しばらくして、5、6人の仲間も寄って来て「ジャパニー?」だの、「いつまでインドにいるのか」(多分そういうことだと理解した)

 判ったような判らないような会話をする。

 ここまではよかったのだが、払う段になって「30ルピー」と言われて、またか。またかというのは、他でも手痛い目に遭っているから。

「ノー!3ルピー」と私は言い返す。

 すかさず仲間が私を取り囲むが、「あかん、3ルピーのはずやった。払わへん」

 ついつい興奮して大阪弁になっていた。

 結局、クツ磨きを手助けしたのだからとの、少年達の言い分も聞いて、10ルピー払った。

 ユーウツだなあと思いながら、立ち上がって行こうとすると、初めに頼んだ少年がかけ寄って来る。

「またインドに来るの?」私にも判る英語でそう聞かれた。

「もうインドなんかに来ない!」ありったけの英語で、そう返事してから、しまったと思った。

 何のかんのあっても、たくましいインドの少年達が私は好きなのに、こんなことを言ってはいけなかったのだ。

 申し訳なさそうな表情が一変して、少年は私をにらみつけて、仲間の方に戻って行った。

 同じ境遇にあったなら、私など生きていけるかなあ。

 そう言えば、お金でなくアメ玉1個で親しくなった、あのちゃっかりした物乞いの少年、今頃どうしているだろう…。

 いつのまにか日が暮れそうになり、公園を出て家に向かう。今日もよく歩いた。

 でも、相も変わらず私はわけの判らないことをやっているようだ。まあいいか。そうだ、帰って詰将棋を作らなくては…

* * * * *

1990年頃の森信雄五段(当時)。1990年の将棋マガジンより。

* * * * *

嬉しくなるほど森信雄七段らしさが溢れるエッセイ。

全編、ほのぼのとした気持ちにさせられる。

* * * * *

ここに出てくる中央市場は、大阪市福島区野田1丁目にある大阪市中央卸売市場本場。

1989年の映画「ブラックレイン」で、ニューヨーク市警のニック・コンクリン刑事(マイケル・ダグラス)と大阪府警の松本正博警部補(高倉健)が二人でうどんを食べた場所だ。

* * * * *

「ブラックレイン」では、デフォルメされた大阪が描かれていたが、市場が休みとはいえ、「ブラックレイン」で出てくる場所と同じ場所とはとても思えないような、のんびりとした雰囲気が漂ってくる。

* * * * *

「何を撮っとるんや。ウチの建物は撮るな」

これは、かなりの高確率で非常に怖い業界の人達だと思うのだが、「何が面白いねん」と呆れて去っていかせるところが、すごいというか神業だと思う。