林葉直子女流王将(当時)「こんなに広く愛されている私の可愛い将棋がいじめに遭った」

近代将棋1989年10月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

 私は、あることに非常に腹を立てた。

 で、将棋の駒を将棋盤の上にぶちまけて、いら立つ心を抑えるため、一つ一つの駒を慈しみの心で丁寧に並べていった。

 私にとって将棋の駒は、武士でいう刀であり、盤は鞘というところだ。

 将棋の駒や盤に向かうと、なんとなく心が落ち着くのである。

 そのときの私の心境は、自分にはまだ経験はないが、外でいじめられて泣いて帰った子どもを見る母親のそれであったような気がする。

 この何の罪もない私の可愛い子どもをいじめて……!

 そんな母性本能に似た気持ちが、私の駒を見る目に沸き起こっていた。

 9×9の升目の中で、それぞれ決まった能力しか持ち合わせていない駒たちを、上手に組み合わせることにより、より大きな戦力として駆使することによって勝負を競う。

(中略)

 そしてその性格からか、この将棋ほど広く庶民に浸透しているゲームは少ない。

 同種のゲーム、囲碁やチェス、オセロなどに比べると、その普及率は格段の差がある。

 そのためか、慣用語には将棋からとったと思われるものが多々ある。

「選挙戦も詰めの段階に入りました」

「巨人、優勝に王手をかけました」

「今度の人選はどうも駒不足のようだ」

「あいつ、成金のクセして……」

等々……。

 こんなに広く愛されている私の可愛い将棋がいじめに遭った。

 私が腹を立てたのはこのことなのである。”ものも言いよじゃカドが立つ”

 まさにその諺どおりのことがあったのだ。

 私は将棋の仕事で、大阪のあるホテルに投宿していた。

 仕事を終え、午後10時をちょっとまわったとき、テレビのスイッチを入れてみた。

 番組はたしか”ニュースデスク”だったと思う。

 Aちゃん殺しの犯人宮崎勤のことを報じていた。

 私は画面をチラチラ見ながら衣服を着替えた。

 私がバックに服をしまっているときだ。

「犯人、宮崎勤は」

 と宮崎の経歴について説明しはじめた。

 私は耳だけをテレビの音声に集中していた。

「―高校時代、趣味が”将棋”という”暗い性格”の持ち主で……」

 この言葉を聞いてから先、私は宮崎のことを報じるテレビの声が聞こえなくなった。 

 なんという言い方!

 なんという差別的表現!

 私はすぐにでも受話器を取り上げて、テレビ局へ抗議を申し込みたい心境だった。

 しかし、いかんせん、口ゲンカとなると、とんと滑らかに舌のまわらない私は、”気持ちはあるけどお口がついてこん”というヒケメによって、直接の抗議は断念せざるを得なかった。

 だけど、私にはこうして皆さんに訴える場を与えていただいている。

 だから、この場で私の口惜しさを思いきり訴えようと思う。

 いいですか。

 宮崎勤という人物は暗い性格だったかもしれない。

 しかし、だからといって、彼がもつ趣味そのものが暗いものだとはいえますまい。

 事実、カメラも趣味だったそうだが、さすがに”趣味がカメラという暗い性格の持ち主で”とは言っていなかった。

 では、なぜ、将棋だけに”暗い趣味”というレッテルを貼りつけたのだろう。

 皆さん、ちょっとプロ棋士の先生方の顔を思い浮かべてください。

 谷川先生、米長先生、内藤先生、大内先生、森先生、田中先生、石田先生、淡路先生等々、名前を挙げればきりがない。

 私がいつも接しているこれらプロの先生方は、ほんとうに明るい方々ばかりである。

 暗い人を探すほうが難しいくらいだ。

「そりゃ専門家だからだろう」と言う方がいるかもしれない。

 しかし、それは違う。

 専門家は将棋だけで生活しているのだ。

 趣味として将棋に接する人とその接し具合において比較すれば雲泥の差がある。

 もし将棋に性格というものがあって、それが暗いものだとしたら、それを生業としている専門棋士たちは、宮崎勤容疑者などとは月とスッポンくらいの差で暗い性格の持ち主ばかりということになるはずだ。

 思うにアナウンサーは……、いや、アナウンサーに原稿を書いた人は、自分の経験の範囲内で接した将棋を趣味とする友人、知人がおそらく暗い性格だったのだと思う。

 憐れむべきは、その原稿を書いた人かもしれない。

 アナウンサーに原稿を渡す地位にある人だからかなりのもののはずだ。

 しかし、ただ出世出世ばかりを狙っていて視野の狭い人間になってしまったのだろう。”ことばは人を殺す”とさえいわれている。

 その言葉をあやつるプロの集団であるテレビ局が、焦点を宮崎勤という犯人に向けていたとはいえ、言葉によって事件とは無関係のものを傷つけることは言語道断である。

 私も将棋のプロの端くれである。

 本来なら、将棋にそんなレッテルを貼ったテレビ局を恨みに恨むところだ(女の怨念って、コワーイものなのですよ、テレビ局さん!)

 しかし、残念なるかな、私も根っからの根アカ人間。

 ここにこうして書かせてもらっているうちに気分もスーッ。

 もういいわ、テレビ局さん。

 今度だけは許してやる……。

 でも、もう、決して将棋のこと、いじめないでネ!!

* * * * *

将棋世界1988年7月号グラビアより。

* * * * *

将棋が趣味だから暗い性格とは全くひどい言いがかりだし、暗い性格と犯罪を犯すということにも何の因果関係もない。

あらかじめ伝えたい方向性が決まっていて、その方向性を強調するために、そのような無理筋の論理展開が行われていたと考えられる。

* * * * *

今ならば将棋が暗い趣味とは、ほとんどの人が思わないだろう。

しかし、この当時の「趣味:将棋」は決して明るく思われるようなイメージではなかったのも事実。

棋士という職業が存在していることも知らない人が多かった時代だ。

このような雰囲気が変わってきたのは、1995年~1996年の羽生善治七冠フィーバーの頃から。

* * * * *

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