「タイトル戦を撮る」

近代将棋1988年2月号、弦巻勝さんの「タイトル戦を撮る」より。

 タイトル戦は地方でやることが多いので前日機械の準備をします。もちろんその数日前に編集部から何ページのカラーあるいは何ページのモノクロとか、非常に簡素な電話があるわけで、その段階から対局場の光などを計算し始めます。はじめての所はまったく解らないので、どんな条件でも撮れるように機械はとても多くなってしまいます。ただ言えることは、ああでもない、こうでもないと考えているときは調子が悪いときで、カメラの台数が増します。これはすべて不安からです。プロにとっては、写っていませんでしたとは、たとえそうであっても言ってはいけない言葉なのです。ですからそのことを考えると何年も使用してきた信頼しているカメラが、その時に故障するのではないかと不安になり、スペアのカメラをと、またそのスペアもとかなんでも部品は一応2台あった方が安心とか思い悩み、フィルムにいたっては光の関係ですべてがちがってきます。このへんかなり専門的になりますが、とにかく機械が雪ダルマ式にふえます。ところが現場では半分も必要ない。これ本当に調子の悪い時です。反対に調子の良い時は機械もとっても少なくなり、前日迷いません。機械が少ないので動きも良く写真が撮りやすいのです。

 このごろの大きなタイトル戦は将棋専門誌だけではなく一般誌も多く取材にくるようになりました。とても喜ばしいことだと思います。ただメチャクチャな事もあります。作法がないのです。将棋への思い入れ、棋士への思いが無いのです。プロならどんな時でも70点の写真は撮るものですから、技術的にどうこうは言えませんが、撮るまでの過程がひどいことが多いのです。タイトル戦の撮影はまず担当新聞社に話を通します。それから立会人に話し、両対局者の了解を得ます。かっこうつけて言えば、短い時間に場の空気を乱さずに、カメラマン側もタイトル戦の空気にとけ込まなくてはいけません。存在が不自然ではいけません。時には10分も20分も対局室に入っていて違和感がないこともありますし、1、2分でもちょっとまずいなあとか感じるわけです。そこをむりしても写真にならないし、対局者に負担をかけ空気が乱れもするし、良いことはなにもありません。対局者は朝から晩まで短い距離で盤をはさんでいますからストロボは大きな負担になります。人間の目に見えるものが撮れぬわけがないのですから、本来将棋の写真にストロボは不必要です。数年前はみなこんな気持ちで撮影してきました。最近のカメラマンがどうなったかと言うと、もうメチャクチャ、ストロボでバカバカ、馬に食わせるほどフィルムは廻すし、レンズは対局室に投げておく。あげくはカメラバックまで対局室におき、投げ出したもう1台のカメラに自分でこけたり、対局者にぶつからないだけましで、ロールチェンジまで対局室でやるから機械の音がまざってファインダーのこっちも向こうもありません。立会人や観戦記者をおしりでおしやってスタンスしているアホなカメラマンもいます。この手のカメラマンは技術もないからアングルもメチャメチャで動きが読めません。ですから、こちらのファインダーにみさかいなしに飛び込んで来ます。しっかりしたプロのカメラマンは相手のカメラマンのレンズを見ていますから、どこまで入るか、どこを苦労して撮っているのか解るので場所を譲り合ったり、反対方面ではかがんでみたり目で合図するとパッと解ります。ただ、年々腰の入ったカメラマンが少なくなり、アマチュア技術のカメラマンが多くなって(編集費が少ない雑誌はシロウトカメラマンを好んで使う)私達プロカメラマンが何年もかけ将棋の写真が少しずつですが対局者に理解されてきているのに、またこれでは対局開始時と終局後の写真しか撮れないことになりはしないか少々心配しております。

(以下略)

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「ただメチャクチャな事もあります。作法がないのです。将棋への思い入れ、棋士への思いが無いのです」

将棋への思い入れ、棋士への思い、を持つこと。

文章を書く時もそうだし、将棋に関わること全てに通じることだと思う。

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弦巻勝さん、故・中野英伴さん、故・炬口勝弘さんなどは、対局中の対局室で写真を撮ることが認められていた。

現在はデジタルカメラの時代になり、記者の方がカメラマンを兼ねていることが多く、また、対局中は映像による中継が主体となっているが、プロの写真家による写真をもっともっと見てみたいものだ。

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弦巻勝のWeb将棋写真館(日本将棋連盟ホームページ)