近代将棋1988年8月号、羽生善治五段(当時)の第38期王将戦予選〔対 大山康晴十五世名人〕自戦記「大名人との一局」より。
僕の連勝が18になった後、大山十五世名人と対戦することになりました。
以前、某将棋雑誌の企画で対戦しましたが、全く歯が立たずボロ負け。
今回は前回よりも内容のあるものにしたいと思ったのですが結果は同じでした。
では、さっそくその対局を見てまわりましょう。なお、この対局は青森の百石町で行われたのでかなり変則的な進行で行われることになりました。
(中略)
中飛車
振り駒で僕が先手と決まり対局が始まりました。大山名人が飛車をどこに振るか注目していましたが、中飛車になるような気がしました。
理由は別に無いのですが、何となくそう思ったのです。
今度は僕が作戦を決定する番なのですが、予定としては急戦で行くつもりでした。
1図の△7二銀は少し意外で△9四歩と受けてくれるとばっかり思っていました。
この局面で▲9五歩と突き越したいのですが、中央の戦いで立ち遅れる事も考えられます。
この対局の最初の分岐点を迎えました。
1図以下の指し手
▲3六歩△5四歩▲2五歩△3三角▲5七銀△3二金▲4六歩△5三銀▲6六歩(2図)1日目終了
1図の局面で▲9五歩、▲3六歩どちらでも一局ですが、気合からいって当然▲9五歩でした。
この手は確かに怖いのですが、やってみる価値はありました。
あの時の軟弱な考えを後悔しています。
本譜は、△5三銀と上がられた所で急戦で行く事を断念しました。
そして、▲6六歩と指した所で昼食休憩になり1日目が終了しました。
形勢はまだどちらとも言えないでしょう。
昼食後、羽田から飛行機で青森へ旅立ちました。
この場所は昨年の若獅子戦以来2回目という事になります。
(中略)
左美濃
午前9時から再開され、封じ手は△5五歩でした。
これで特に戦いが始まるというわけではなく、一歩持って駒の働きを楽にしようという事だと思います。
穴熊にするか左美濃にするか少し迷ったのですが、穴熊にしても金銀2枚が浮いていてあまり堅くならないのであきらめました。
3図の局面からの指し方として、▲5九角~▲2六角と▲3八飛の2つが有りますが、どちらも有力なので非常に迷う所です。
3図以下の指し手
△7三銀引▲3八飛△2二飛▲3五歩△同歩▲同飛△3四歩▲3八飛△2四歩▲2八飛△2五歩▲3七桂(4図)開戦
△7三銀引に対して▲3八飛といよいよ行動を起こしました。
ここでは前にも言ったように▲5九角△1四歩▲2六角も一局と思いますが、そこで△2二飛と角頭を狙われて指されるのが嫌でした。
平凡に3筋の歩交換を許してはまずいので、△2二飛と2筋からの反撃を見せます。
▲3五歩はこの一手。
▲2八飛と戻っているのは手損しただけになります。
▲3五歩以下必然の手順が続き、4図の局面になりました。
手の広い局面で色々な手が考えられる所です。
4図以下の指し手
△2六歩▲2五歩△5一角▲2六飛△3三桂▲6五歩△6二角▲5五歩△8三銀▲5六銀△7二金(5図)持久戦
4図の局面で思い浮かぶ手は、△5一角、△3五歩、△2六歩位ですが、△5一角は▲2五飛△2四歩▲2六飛でつまらないですし、△3五歩も▲2五飛△2四角▲2六飛△2五歩▲同桂で難しい。
ただ、この手順は感想戦で大山名人に指摘されたもので、僕がこの手順を発見できる自信は全然ありません。
そこで本譜の手順ですが、局面が落ち着いて持久戦模様になりました。
▲5五歩~▲5六銀は△4五歩の仕掛けがいつでもあるので、気が進まなかったのですが、他に手が解りませんでした。そして、しばらくすると不安が現実の事になるのです。
5図以下の指し手
▲1五歩△2一飛▲6六角△4五歩▲2九飛△4六歩▲4九飛(6図)敗着
▲1五歩は緩手でした。
本譜を見れば解るようにこの一手は全く働いていないのです。
この大事な中盤戦で一手パスをしているのでは良くなるはずがありません。
▲6六角に対して△4五歩と二度目の開戦です。
▲1六飛は△2六歩で困るので▲2九飛の一手ですが、あまり自信が持てない所です。
そして、▲4九飛が自然に見えて実は敗着だったのです。
▲5四歩が正解でまだまだ難しかったと思います。
6図以下の指し手
△3五角▲5四歩△2五桂▲同桂△同飛▲1一角成△5七歩▲6六馬△5八歩成▲同金△2八飛成▲4八歩(7図)辛い一手
△3五角が好手で困りました。
何か指さなくてはいけないので、遅まきながら▲5四歩と指しましたが、”証文の出し遅れ”もいい所で△2五桂から気持ち良く捌かれてしまいました。
しかし、▲1一角成とした局面はまだ粘れると思っていました。
ところが、△5七歩と指されてみると、いくら考えても駄目だということが、解ったのです。
以下△2八飛成まではほぼ必然の手順ですが、そこで受ける形がないのです。
仕方無く▲4八歩と受けましたが、何とも辛い一手です。
7図以下の指し手
△5四金▲5五歩△5三金▲7七桂△4四桂▲8七香△5六桂▲同馬△4七銀▲同金△同歩成▲同馬△4六金(8図)負けを覚悟
△5四金~△5三金とされてまた困ってしまいました。
そして△4四桂も厳しい一着で▲4五銀とすると△4七歩成▲同金△4六歩以下”ダンスの歩”を決められてしまいます。
そこで▲8七香と8筋に狙いをつけますが、あまり響いていないようです。
そして、迎えた8図。
防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました。
8図以下の指し手
▲2九馬△2七竜▲8五歩△同歩▲2八歩△3七竜▲6九桂△5六歩▲同金△同金▲同馬△3六竜(9図)壁は高く、そして厚かった
8図以降は全く勝負所を失ってしまいました。
本局を振り返ってみると序盤~中盤の始めごろまではまあまあだったのですが、戦いが始まってすぐに間違ってしまい、そのまま押し出された様な将棋でした。
これで連勝も止まり非常に残念ですが、たぶんここまで来るのが出来過ぎだったのでしょう。
9図以下の指し手
▲3四馬△6八角成▲6七馬△同馬▲同銀△6八金▲8五桂△8四歩▲7三桂成△同桂▲7八金△6七金▲同金△5八角▲7八銀△4九角成(投了図)まで、124手にて大山十五世名人の勝ち
* * * * *
「以前、某将棋雑誌の企画で対戦しましたが、全く歯が立たずボロ負け」
これは、将棋世界の新春お好み対局として企画されたもので、将棋世界1988年1月号に観戦記が載っている。
本局は、羽生善治五段(当時)と大山康晴十五世名人の公式戦初対局ということになる。
* * * * *
△5三銀~△6四銀と動く中飛車は古くからあって、振り飛車名人と称された大野源一九段が指す中飛車は、この形が多かった。
* * * * *
1日目が東京将棋会館で、2日目が青森県百石町(現・おいらせ町)という、羽生五段にとっては慣れない環境の中での対局だったものの、大山十五世名人を破ることができなかった。
* * * * *
「防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました」
羽生九段が「諦めの悪い僕」と書いたのは、この自戦記だけではないかと思われる。
* * * * *
「これで連勝も止まり非常に残念ですが、たぶんここまで来るのが出来過ぎだったのでしょう」
がっかりしていることが強く伝わってくる文章だ。
* * * * *
→若き羽生善治さんが晩年の大山康晴十五世名人と初めて対戦したのは…(毎日新聞)