王将戦の主催にスポーツニッポン新聞社が加わった時

将棋世界1991年5月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。

 古い資料を眺めていると面白い。その時は苦労したことでも、振り返ってみれば楽しい思い出の一コマになる。昭和51年の名人戦交代劇の頃の資料もひときわ懐かしい。

 当時、大山は将棋連盟の副会長をしていた。会長は塚田正夫、副会長は原田泰夫、中原誠を含めて3人だった。

 毎日新聞は新社発足当時で、経営危機は一応まぬがれたものの再建への道はなお厳しかった。連盟が朝日新聞に要求した1億6千万円と同社が提示した1億2千万円(うち1千万円は一時金)の差は埋まらず、危機的様相を呈していた。51年7月2日、連盟は1億3650万円で打診し、解決の糸口を探ろうとしたが、朝日側は了承せず、7月12日「やむなく独自の企画による棋戦の開催に踏み切った」と連盟に通告した。

 翌13日、連盟は「名人戦は36期から毎日新聞と仮契約した」と発表した。日経新聞の記事の中に西村勇学芸部長の談話がのっている。「(前略)交渉過程で1億3650万円という数字も出されたが、これは棋士を納得させられるかどうかわからないという個人的提案で、正式要求額とは受け取っていない」

 連盟の資料によると「7月2日、二上、原田、米長の三理事が、朝日で出向き、歩み寄りの数字を示して交渉したが、その席でも進展が見られず、7月6日、朝日より連盟へ改めて従来どおりの返答があった」となっている。

 話し合いの内容は知るべくもないが、その微妙な受け取り方の差に名人戦移行劇のポイントがあったかどうか不明である。大方の棋士の心底に流れていたのは、永年、低い契約金で押さえていた朝日へのうらみつらみである。

 大山が副会長として、また永世名人、永世王将として心を砕いたのは名人戦の毎日里帰りと表裏一体になった王将戦の存続問題であった。懐の苦しい毎日が、36期(1年は特別棋戦で計2年)2億円、37期1億4500万円、38期1億6千万円の支出を決断したのは新生毎日の明るいセールスポイントにしたいことと同時に、王将戦のスポーツニッポン紙への移行(毎日と共催)に目鼻がついたからである。大山は何度も毎日を訪問し、毎日幹部、スポニチ東京本社狩野近雄社長と懇談している。狩野は大賛成だったが、最終決定が出る前に急死してしまった。毎日とスポニチの水面下の交渉がつづいた。スポニチも基本的には引き受けていたが、契約金が折り合わなかった。

 某日、私は毎日の大先輩であり、大山とも親しかったスポニチ大阪本社の森口肇社長をたずね、協力を依頼した。

 窮余の一策として、指し込み制をやめる、タイトル戦の二日制を一日制にする、などの妥協案を持ち出した。それなら、スポニチの示す契約金で連盟が了承する可能性があった。

 森口社長はこう言った。

「スポニチが引き受けるとしても、質を落としたものを買う気はない。もし、一日制とか何とか、スポーツ紙としての本社にふさわしいと思われるやり方があるなら、引き受けたうえ、いずれ当社の内部で決めます」

 条理を尽くした言であり、私は全く恥ずかしい思いをした。従来通りの内容で、王将戦はスポニチに移行した。棋譜はスポニチ優先であり、毎日はタイトル戦の費用を負担し、特集としてタイトル戦の棋譜を掲載することになった。

「億単位の金が絡んでいるだけに、よもや毎日新聞が引き受けるとは予想されなかった」(週刊文春のコラム)。名人戦は毎日に戻り、大々的なキャンペーンが始まった。

(中略)

 昭和62年秋、竜王戦が発足した。十段戦を発展的に解消し、棋界最高額のタイトル賞金2,600万円を出すというのが、読売新聞社の発表である。同時に、それ以上の狙いは名人戦を上回る棋界最高のタイトル戦であった。対局料が高くなり、賞金が増えることは棋士にとって歓迎すべきことである。だが伝統のある名人戦をさしおいて「棋界最高」が許されるものかどうか。連盟会長としての大山は一番苦労したに違いない。棋士の感情もファンのそれも、名人戦は冒すべからざる聖域であった。

 他社が契約金を上げても、竜王戦の契約金は常にそれを上回るというのが主催紙読売新聞の主張であった。私はそれを”小田急方式”と名付けた。小田急労組はストをやらなかった。他組合がストでベースアップを獲得しても常にそれを上回るという労使の約束があった。そのため、小田急沿線の地価が上がったと言われるほどである。

 大山は名人戦主催の毎日新聞を訪れ、何度も幹部と懇談した。もちろん社長とも会って連盟の実情を話した。それは会長として当然かもしれないが、大山が他と違うところは毎日の大阪本社、西部本社、中部本社へ、その土地へ行くたびに顔を出し、代表と懇談した。いわゆる根回しだが、大山にとってそれは永世名人、毎日新聞との縁故を考えたうえで連盟会長としての職責を両立させる必死の活動であった。毎日新聞山内大介社長は名人戦を上回る棋戦は了承できないが、併立する二大棋戦ということなら譲歩すると大山に約束した。

 山内社長は在社中に病死したが、大山はその死を痛く悼み、竜王戦誕生の際の配慮を謝した。

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王将戦は、1950年、名人戦の契約が朝日新聞社に変更になったことによって、それまで名人戦を主催していた毎日新聞社が創設した棋戦。

1976年、名人戦は再び毎日新聞社の主催となる。

井口昭夫さんは、この頃の毎日新聞将棋担当。

この時に、王将戦をどうするかという問題が必然的に起こってくる。

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この当時、毎日新聞社は経営悪化のため、新社旧社分離による再建を実施している時期だった。

経営的に苦しい中から大きな投資をする名人戦は、新しい毎日新聞にとっての大きな目玉となるものだった。

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そのような背景の中、スポニチ、毎日新聞、日本将棋連盟がいかに頑張ったかがわかる。

このようにして歴史が作られていくのだと思う。

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「スポニチが引き受けるとしても、質を落としたものを買う気はない。もし、一日制とか何とか、スポーツ紙としての本社にふさわしいと思われるやり方があるなら、引き受けたうえ、いずれ当社の内部で決めます」

スポニチ大阪本社・森口肇社長(当時)の「質を落としたものを買う気はない」が素晴らしい言葉だ。

この強い意志があったからこそ、王将戦はそれまでと同様、二日制が守られたということになる。