禁断の盤外戦術その3は、古典的手法「口三味線」。
1996年刊行の田中寅彦九段「羽生必敗の法則」より。
昔、たまに先輩棋士の中に、若い棋士を相手にする際に口からデマカセを言う人がいた。「なんだ、ちょっとこれじゃあダメか」などと一手一手ブツブツ言いながら、実はまったく逆だったりする。かくいう私も、駆け出しのころは何度かその手で一杯くわされた記憶がある。
ある先輩棋士との対局でのこと。「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあと指導対局もあるし、お手柔らかに」と半ば勝たなくてもいいや、というトーンで話しかけられた私は、”ああそうか、センパイも忙しくて大変なんだな。少し協力しよう”と思い、お互いが早めにどんどん手を進めていった。ところが、私が多少悪い手を指した瞬間、先輩棋士の手がピタッと止まった。そして、今が勝負どころとばかりに長考を開始したのだ。結局、私を負かしたあと「やっぱり出稽古より将棋に勝ったほうがいいや」とニヤリ。
このような経験は、棋士なら若いとき誰でも一度や二度あるものらしく、そこで勝負師としての非情さを教えられるという。
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以前紹介したが、故・佐藤大五郎九段の体当たり口三味線もインパクトがある。
将棋世界1999年7月号、鈴木輝彦八段「棋士それぞれの地平」より。
(佐藤大五郎九段が)対局席につくなり、「森山君だったね」と言うのは森下君である。駒箱を開けようとするので森下君が「先生、今日の相手は私ではありません」と困ったように言う。とりあえず空いている席に座るのだった。「なんだ違うのか」と言うので対局室は爆笑である。名前は違っているし、席も間違える。この先生、ボケているのかな、と思わせて終盤は強烈な勝負手を放ってくる。この戦法も二、三度で効果をなくしたが、先生は気に入って何度もやっていた。若手と指すのも、将棋自体も本当に楽しくなっていたのだろう。これほど分かり易いのは、人間が真実正直な証明だと思う。
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「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあと家内の実家へ行かなきゃならないし、お手柔らかに」
「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあと腰痛の治療へ行かなきゃならないし、お手柔らかに」
「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあと30年ぶりの同窓会があるし、お手柔らかに」
「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあとデートがあるし、お手柔らかに」
「キミに当たったら勝てるわけないよ。今日はこのあと歌舞伎を観にいくし、お手柔らかに」
いかに無気力感を醸し出すかがポイントとなりそうだ。