1990年3月、郷田真隆四段誕生の日。
1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」より。
郷田真隆君が四段になった。
三段リーグの最終日、残り二局を連勝しなければいけない状況からキッチリ二つ勝っての昇段である。ボクは彼の将棋を非常に高く評価しており、実力的には上って当然だと思っていたが、前期のこともあり最後まで心配だった。
前期、郷田はラス前の十七戦目に負けて大魚を逸した。その一局に勝てば、最終戦の畠山成幸四段戦が決戦となっていたのである。
郷田は当然ながらそこが勝負と思っていたはずで、その、本来ならば決戦となるはずの最終戦が単なる消化試合となったのは、彼自身、悪夢を見ているようだったのではないか。
だが、彼は、落胆をオクビにもださず、最終戦を戦い、当然のように勝った。そしてその日の夜、残念会という感じで飲みに出たとき、「今日は一勝一敗だからいいや」といった。
郷田にしてみれば、捨て台詞のつもりでいったのだろうし、まず憶えていることはない一言である。だが、この一言は僕には強く印象に残った。この、どんな逆境においても決して弱音を吐かない不屈の闘志が、今回の昇段の原動力となったような気がするのである。
最終日には、郷田の兄弟子にあたる森九段が将棋連盟につめていて、心配そうに成り行きを見守っていた。当日の夜に行われたささやかな祝賀会では、いつもは陽気な森さんが、少し照れたような表情で静かに飲んでいた。本当に嬉しそうであった。無理もあるまい。大友門下からの棋士誕生は森さん以来なのだ。ようするに森さんは、ずっと一人っ子だったのだから(だが森さんは、酩酊するうちに陽気になり「麻雀をやろう サイコロを振ろう」といいだした。結局、僕たちは朝までサイコロを振っていた)。
昇段したとき、、このように心から喜んでくれる人が仲間にいるというのは、非常に嬉しいことである。かくいう僕も素直に喜んだ一人であって、僕は、他人の勝敗がこれほど気になったことはない。まあ、同世代の僕にこのようなことをいわれるのは、彼にしてみればあまり嬉しいことではないだろうが。
僕には中学の三年間、ほとんど将棋に打ち込めず、無駄飯をくったという思いがあって、同じような精神状態で高校の三年間を過ごした郷田の気持ちがよくわかるのである。
郷田のよいところは、将棋も性格も真っ直ぐなことである。将棋に対する姿勢の純粋さ、真面目さは、彼を知るだれもが認めるところで、そういうところは加藤(一)九段によく似ている。
ただ、将棋界という世界で勝ち抜いていくためには、純粋なだけでは駄目であり、ちょっと斜めからものを見るような感性が大切なのである。
彼が出世競争において、羽生、森内などに差をつけられたのは、このようなメンタルな部分が原因であって、盤上だけみれば、決して勝るとも劣らないと思う。これからは、高校時代の三年間を取り戻すべく頑張ってほしい。
また、彼はその三年間、よく女の子にモテたらしく、その点では少し口惜しい。
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郷田真隆九段が奨励会に入会したのが1982年12月(11歳)だった。
同期入会が、佐藤康光(13歳)、羽生善治(12歳)、森内俊之(12歳)。
郷田少年が三段リーグに入ったのは1988年1月(16歳)。
この頃、佐藤康光四段、羽生善治四段、森内俊之四段。
森内俊之四段誕生の後、恐怖の三段リーグが復活していた。
郷田九段のプロ入りが1990年4月(19歳)。
この頃、佐藤康光五段、羽生善治竜王、森内俊之四段は新人王戦、早指し新鋭戦で優勝。
郷田新四段は、奨励会在籍の期間が7年4ヵ月と長かったものの、プロ入り後は、1992年に王位獲得(21歳)、1998年に棋聖獲得、1999年にA級昇級(28歳)と、今までの遅れを一気に取り戻す。
ちなみに、羽生世代の奨励会在籍期間は次の通り。
故・村山聖九段 2年11ヵ月
佐藤康光九段 4年4ヵ月
先崎学八段 6年
丸山忠久九段 5年3ヵ月
羽生善治二冠 3年
藤井猛九段 5年
森内俊之名人 4年6ヵ月
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当時の郷田真隆新四段の紹介記事。
将棋マガジン1990年5月号、駒野茂さんの「三段リーグ&奨励会NEWS」より。
郷田新四段は多趣味のようだ。本人は、「音楽鑑賞」とやや控えめに言ったところ回りにいた仲間が、「そんな訳がない!」とブーイング。ある人に言わせると、ボーリング8級、麻雀5級、その他色々に級をつけて話してくれた。最後についた言葉が、下手の横好き。でも、多趣味と人柄の良さで友人は多い。昇段後、彼を囲む人の輪が大きかったのは、その証明だ。
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7月28日の記事「郷田真隆九段の真骨頂」にあるように、NHK杯の観戦記を書いた際に、私は郷田九段と接する機会があった。
郷田九段に直接お会いして強く感じたことは、男らしさと人柄の良さ。
この時の観戦記に書かなかったエピソードは、別の機会に書きたい。