将棋世界2002年6月号、佐藤康光王将(当時)の特別寄稿「我が将棋感覚は可笑しいのか?」より。
事の発端はこうだった。
ある対局の後、若手棋士とも交流のある知人と飲んでいる時、仰天の事を言われた。
「君は本当に中終盤の力で勝つね」
エーッ! 勘弁してよ。私は正直、自分自身ではトップの中でも序盤巧者だと思っている。中終盤も弱いとは思っていないが、今現在最強でないことは力負け、逆転負けのある過去の対羽生戦で証明済みである。
しかし彼に言わせると、若手の評判はそういう事らしい。
本当にそうであろうか。少なくとも自分の研究には自信をもっているし、毎局、工夫しながら指しているつもりだ。
しかし、確かに私の作戦を真似する若手が全くといっていい程いないのも事実である。これは本来いい姿なのだろうか?
若手に認められていないというのは将棋が大したことありませんよ、と言われているのと同じ事ではないだろうか?
私の修行時代は中原、米長、加藤(一)の全盛時代で、そこに谷川が割って入ろうとしている時代だった。
実際私も記録係を務めたり(そんなに多く取った訳ではないが)連盟でライブで研究したりと間近で勉強したものだ。
特に米長矢倉はよく研究した戦法で二、三段時代はほとんどこれで勝たせてもらった思い出の戦法である。
トップ棋士の本来の形であればそういう空気、影響を受けるはずだ。
しかるに今は? 丸山、藤井のスペシャリストはいいだろう。羽生、郷田、谷川、森内あたりはどういう評価を受けているのだろう?
もちろん私の将棋も気になる。
別に全部が全部そうしろと言っている訳ではない。
しかし後輩も山ほどいる訳で1人位はそういう人が出ても良さそうなものではないのか。
何が可笑しいのか? それが分からない。
それとも、単なる被害妄想なのか? あー分からない。
私もたまに自宅に若手を呼んで半分教わり、半分教えている。
彼らは皆素直である。が、指す将棋の方向性が180度全く違う方角をお互い突き進んでいるのではないか?と感じる時がある。感性が共有できないのである。
そういえば昔、米長先生にそういうような目で顔を見られた事があったような。自分も少しはそういう立場に近づいたということだろうか。
(以下略)
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このようなことを気にしていた佐藤康光九段は、このあと開き直ったのか、2005年には「一手損向かい飛車△1二飛」、「モノレール向かい飛車」、「江戸時代風振り飛車」など独特な戦法を繰り出すことになる。
「一手損向かい飛車△1二飛」は下の図のような出だし。
振り飛車党でもあまり真似したくない戦法だ。しかし見る分には楽しい。
「モノレール向かい飛車」は次の図。この後、向かい飛車になる。
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佐藤康光九段の新手で最も真似されたのは「対ゴキゲン中飛車▲9六歩」。
将棋世界2006年7月号、山岸浩史さんの「徹底解剖!佐藤新手の謎」で、佐藤康光棋聖(当時)は次のように語っている。
この▲9六歩が僕の新手です。最初に指したのはこの対局から5ヵ月前の山崎さんとの朝日オープンでした。そのときは将棋に負けたせいか見向きもされなかったのに、この将棋で羽生さんに勝ったことで俄然、みんな真似しはじめたんです。あの山崎戦はいったい何だったのかという気持ちもありますが、真似されるのは素直にうれしいですね。
(中略)
これは若手棋士の間でもかなり真似されているので、本当にうれしいです。
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本当にうれしそうだ。