大晦日の夜に読んで、とても印象深かった随筆。
将棋世界1973年3月号、町田進さんの将棋随筆「将棋の駒音」より。
Kさん(女性)は、画学生だったころ、上野の桜木町のアパートに住んでいて、近くの動物園に通って鷲ばかりスケッチしていた。
夜になると「ゴッホの書簡」なぞ読んで、夜更かしをするのだが、隣室でも起きている様子で、毎晩のように「パチリパチリ」という金属音ともちがうKさんにいわせれば、「澄んだいい音」が壁ごしにきこえてくる。
なんの音かKさんにはわからなかった。
夜明けに眼がさめることがあったが、そんなときにも「パチリパチリ」ときこえてくることがある。 あるとき、美校仲間のHが遊びにきて、美術論かなにかをやって話しこんでいた。
夜が更けてくると例の「パチリパチリ」がきこえてきた。
「あの音なんなの」とKさんがきく。
「あれかい。将棋の駒音だよ」
とHは将棋を指すまねをして見せた。
Hの説明によると、テキは相当な腕前であろうということだった。下手な奴の駒音は、にごっていて頭にひびいてやり切れないものだなどともいった。
Hは将棋を指すらしかったが、Kさんが、「おとなりに挑戦したら」といくらすすめても応じなかった。
から切り下手だったのかもしれない。
Kさんは、そのアパートに美校を卒えるまで、かれこれ三年ちかく住みついたが、アパートぐらしの気やすさというか、夜更けにひとりで将棋を指す隣の人とは、顔も知らず、口ひとつきかず終いだった。
”下町の人情”などという言葉もあったが一方では”都会の孤独”も立派に通用していた。
管理人から、きくともなしにきいたところによると、隣の人は、年齢は二十九歳の独身で、職業は浅草に夜店をだしている人ということだった。
Hと結婚をしんけんに考えはじめた頃、晩春の夕暮だったが、ドアのそとに花鉢がひとつおいてあった。
電燈の下で見ると、ドイツ種のアザミで、大きな蕾がたくさんついていた。
だれかがこっそり贈ってくれたにちがいないが、すぐには贈り主はわからなかった。
その翌日から、将棋の駒音はきこえなくなり、隣りは空室になった。
隣りの人が、関西方面へ、旅にでたことを知ったのは、三日ほどたってからだった。
なんでも将棋盤らしい四角いものを入れたリックサックを肩にして、朝早く、アパートの門を出て行ったそうである。
アザミの花鉢の贈り主は隣りの人だったのか。自分のうかつさをKさんは嘆いた。
「うしろ姿でも一度見ておけばよかった」いつまでもその想いがKさんには残った。
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Kさんは、いまたしかに六十歳ちかくなる筈だが、四十五歳ぐらいにしか見えないのはどういうわけだろう。
いつも結城を着て、それがよく似合うのだが、広い画室の方へはめったに行かずに、せまい四畳半の茶の間で好きな本などを読んでくらしている。
Kさんは、現在では、四條派の流れをくむ美人画の大家だが、将棋の話が好きで、「将棋はよくわからないけれど、駒音って素敵だわ」などといって来客の意表をつくのである。
HはKさんと結婚したが十年前にフランスに行った切り帰らない。
「画学生と将棋を指す若い夜店商人」の淡い物語―上野の森に夕がすみがかかってその中空を帰雁の一群が翔んだころの、随分、古い話である。
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昭和8年か9年頃の話。
アパートの隣室の男性は、侠客(テキ屋)だったのだろうか。
当時の浅草は東京でもメジャーな繁華街だったので、そこから関西へ商売の場を変えたのは何か深い事情があったのかもしれない。
時代としては相掛かり全盛の時代。南禅寺の決戦 木村義雄���坂田三吉戦が行われる数年前のことだ。