将棋マガジン1988年2月号より。
1987年12月9日に亡くなった芹沢博文九段への追悼文などから。
第1回の「将棋の日」は、昭和50年に、蔵前の国技館で行われた。その、一大イベントの事実上の担当者が芹沢さんで、文字通り東奔西走されていた。当日の国技館は、八千人もの将棋ファンで埋めつくされるという大盛況。その成功があったからこそ、「将棋の日」は今でも続いているのだ。この功績は大変な事と思う。
後輩の面倒を、よく見る人だった。
後輩達を集め、将棋を教えてくれた。普通は、弟子にだって教えたがらないものである。そういう意味でも、素晴らしく開放的な人であった。米長九段、勝浦九段らを始め、私を含めて、影響を受けた棋士は数多い。基礎から理論的に、みっちりとたたきこまれた。芹沢さんだから出来た事と思う。
「もう、名人を目指す、という感じではなくなった」と語っていた事があった。それからは、将棋の普及に精力を傾け、テレビ、ラジオ、出版、とあらゆるメディアを通して、将棋の存在を広く世間に知らしめた。
それも、これも将棋へ対する深い愛情があったからだ、と思う。芹沢さんは、心から将棋を愛していた。
ご冥福をお祈りします。
昭和62年12月9日
名人 中原誠
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将棋マガジン1988年2月号、川口篤さん(河口俊彦七段)の「対局日誌」より。
来るべきときが来た。芹沢が倒れたと聞いて、そう感じた。
数年前から芹沢には、人生の終点が見えていたようである。それに向かって、恐れることなく歩んで行ったように思える。酒さえやめればいくらでも生きられる体であったが、彼は壮絶なる死に至る道を選んだ。すなわち己の美学に殉じたのである。自分の真の姿を知ってもらえない不満を、死ぬまで持ち続けたろうが、多くの人に愛されたし、やりたいことをやり尽くした人生だった。
ちょうど三年前、二人で酒を飲んだとき、衰えた彼を見て感傷的な気持ちになり、
「今まで世話になりっぱなしだったが、50をすぎたらオレがお返しをするよ」
と言ったら、彼は口をゆがめ、
「オレは、お前の3倍生きているんだ、この先長く生きようとは思わん」
まるで生意気だぞ、と言わんばかりだった。私は、このとき、器量のちがいというものを、痛切に感じさせられた。
人は何年生きたか、より、どう生きたか、が重要であろう。人は早死にを惜しむが、芹沢は51年、充実した生活を大成したのである。
(中略)
12月8日
前日、山口瞳さんのお宅におじゃまして、おそくまで話し込んでしまい、どうせ翌日は取材日だからと、新宿のホテルに泊まった。そして、ゆっくり起きて、ブラブラ将棋会館に来てみると、みんなおろおろしていた。芹沢が危篤状態で、近親者や友人は三宿病院にかけつけたという。
私も行かなければ、と思ったが、どうしても片付けなければならない雑用がある。それに、夕方には囲碁の観戦記で日本棋院に行かなければならない。
どうしたものかと迷ったが、そのうち、病院から、中原名人や田中(寅)が来て、なんとか小康状態を保っている、と判った。
それなら、夜見舞いに行こうと決め、ようやく対局を見る気になった。
(中略)
C級2組の順位戦ばかり17局。4階と5階の部屋全部を使って対局が行われている。
まず大広間。それから特別対局室と見て回り、第二対局室へ行くと、芹沢の娘婿の大野が中田(章)と対戦していた。ちょっと声をかけたが彼は答えず、泣き出しそうな顔で盤を見つめていた。
(中略)
碁は、日刊ゲンダイの指導碁で、6時半に始まって、いつもは9時ごろには対局も後の手直しも終わる。ところがまずいときにはまずいことが重なるもので、この日は対局者がわるかった。加藤正夫名人に対するはアマ強豪の金沢東栄氏で、これは簡単に終わらない。両者秒読みの戦いがえんえんと続き、終わったのは11時に近かった。それからの感想戦も長く、私は気が気でない。たまりかねて、お先に失礼した。
激しい雨のなかをかけるようにして将棋会館に戻り、大広間に行くと、ここはあらかた終わっていて、中央に田中(寅)が立っている。大野を連れて行くため、終わるのを待っているのだ。出るときは呼びに来てよ、と声をかけて、5階に上がった。
(中略)
感想戦が始まって10分ぐらい経ったころ、奨励会員が呼びに来てくれた。すぐ下に降りると大野はコートを着て待っていた。
病院に向かう車中で、なにか話そうとしたが、言葉がない。大野は顔をそむけるように暗闇を見つめていた。やがてポツリと「朝、出てくるとき話しかけたら、通じたような気がしたんだがな」。すかさず田中が大きな声で「午後3時ごろも、そういう感じがしたよ」と力づけるように答えた。
病院へ着くと大野はかけ出した。
病室では、親族のなかの若い人達がベッドを取り囲んで芹沢を見守っていた。呼吸器をつけているのだろう、鼾のような呼吸音が聞こえる。大野の横に立って芹沢を見ると、彼は顔をこちらに向けて眠っていた。せわしない呼吸のたびに、顔がゆれ、腹のあたりが波打った。表情はいつもより、しっかりしていた。
私は黙って見つめていたが、やがて芹沢の妹さんが「暑いみたい」と呟いて暖房装置を直した。そして毛布に手を入れ、「あら、指先がつめたい」と言いながら娘の和美さんを見た。
言葉が交わされて、私はホッとした。すこし気が楽になってみると、芹沢は小康を保っているように思えてきた。根が丈夫なのだから、ひょっとして元気になるかもしれない。田中を見ると、彼も同じことを思っているらしい。うなずき合って、帰ることにした。
戸口まで送ってくれた妹さんは、「尿が出れば黄疸が治まって意識が戻るんですけど、すこし点滴を「多くしたんですよ」と回復を疑っていない様子だった。
「じゃ、また明日来ます」
そう言って私と田中は病室を出た。何気なくと名に眼を遣ると、午前1時30分になっていた。それから2時間30分後に芹沢は逝った。
今から思えば、芹沢は「娘と孫を頼むぞ」と一言いいたくて、大野の帰ってくるのを待っていたのだろう。それが、芹沢の最後の頑張りだった。
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第1回将棋ペンクラブ大賞雑誌部門大賞が、師匠の高柳敏夫名誉九段「愛弟子・芹沢博文の死」(文藝春秋1988年3月号)だった。
1987年12月9日は、将棋ペンクラブが河口俊彦会長などにより設立されてから12日後のことだった。
当時、将棋ペンクラブには顧問が27名いたが、そのうちの一人が芹沢博文九段。
河口俊彦七段は将棋ペンクラブ会報2号(1988年春号)の「将棋ペンクラブ日誌」に次のように書いている。
12月10日(木)
通夜。新潮社梅沢さんと、近くの「湖月」へ。後、新宿へ出て、田辺・真部・小沢さん達に逢い、「将棋ペンクラブ」への協力をお願いした。小沢さんが「会員が五百人ぐらいになればいいわね」と言ったが、そのときは夢物語のように思っていた。
12月11日(金)
告別式。顧問、会員の慶弔には気を配ることにしてあったが、最初が顧問の中でいちばん若い芹沢だったとは・・・。
(以下略)
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明日は、同じ号に載った二上達也九段による名追悼文、将棋マガジン編集部による思い出など。