近代将棋2006年8月号、池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。
六段まであと1勝と迫っている糸谷哲郎五段のデビュー戦。
王座戦の井上-深浦戦と棋聖戦の橋本-糸谷戦を取材(週刊将棋の仕事)。前者は本戦の1回戦、後者は一次予選の1回戦だ。
棋聖戦は糸谷四段のデビュー戦で、午前中から猛スピードで指し手が進んだ。橋本六段が先手で、戦形は後手一手損角換わりに早繰り銀の猛攻。30分もたたないうちに銀交換になった。
新四段は長時間の対局(といっても棋聖戦は各3時間でプロ公式戦では短いほうだが・・・)に慣れていないから、糸谷さんの指し手が早いのはわかるけれど、それに合わせるかのように橋本さんの着手も早い。
ひょっとして午前中に終わるんじゃないかと思ったが、さすがにそうはならなかった。ただ、橋本さんはかなり優勢を意識していたようだ。
下図は午後1時半ごろの図面で、後手が角頭を狙って△6五銀と(5四から)出たところ。双方、居玉に加えて、後手の金銀が3枚も城外に出ているという珍形である。
ここから▲3五歩△同金▲4四角と進む。先手は次に▲5三角成と▲3五角△同銀▲2三飛成の狙いで、後手は両方を同時には防げないから技が決まったように見える。
だが実際はそうではなかった。▲4四角以下、△4八歩▲同金△6二玉▲6六歩△4五金▲1七角△5四銀▲3五歩△同金▲同角△同銀▲2三飛成。
先手は狙いの▲2三飛成が実現したが、驚いたことに、ここはもう後手良しになっているという。途中、△5四銀が冷静な手で、「たぶん、ここは逆転されている」と橋本さん。
△5四銀で先手が悪いのなら、その前の▲6六歩がどうだったか、となる。銀を攻めるなら、まだ▲7七桂のほうが良かったようだ。
上図からは△1二角▲2二竜△7一玉▲1一竜△8九角成の進行。
△1二角と△7一玉がピッタリの手で、先手は困った。▲8二竜は△同玉で後手の味が良すぎる。で、▲1一竜だが、△8九角成と桂を取られて、これが銀取りと△1二馬(竜が取れる)の両狙いだから、やはり先手が苦しい。
△8九角成が生じたのも、もとはといえば,先手が▲6六歩と突いたからである。ところが感想戦によると、橋本さんは対局中、▲6六歩を「決め手と思っていた」という。△5四銀をウッカリしていたわけ。
決め手になるはずが、実際は形勢を損ねる一着になったのだから、先手にとっては最悪の展開。将棋の怖いところである。
△8九角成からはハッシー(橋本さんの愛称)にチャンスはなく、午後4時前、無念の投了となった。
この敗戦は相当にこたえたはずだ。途中から力と力のぶつかり合いみたいな展開になり、それで負けたということは「力負け」を意味するからだ。もともと良かった将棋であり、しかも相手は17歳の新人である。
検討が終わり、部屋を出てエレベーターを待っていたら、ハッシーがやってきて「怪物です。強すぎる」と言った。怪物―。その場に糸谷さんはいなかったが、新四段にとっては最大級のほめ言葉だろう。
僕が苦笑しながらうなずくと、ハッシーは急におどけて、思いもよらない言葉を口にした。
「宇宙人ですよ!」
「えっ?」
「だって一手指すたびに僕の顔をじろじろ見るんだから」
これには噴き出した。感想戦ではそんな場面を何度も見たが、対局中もそうだったとは知らなかった。
糸谷さんは無意識にやっているのだろうが、見られるほうは気になるよね。その視線に耐えられなかったのがハッシーの敗因か。まさかね。
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”怪物”とは正体のわからない超常的な存在のことを指すことが多いので、特定の分野で、はかり知れない能力を持っていそうな凄い新人に対して贈られる褒め言葉ともなっている。
古くは野球の分野で「怪物 江川」、「平成の怪物 松坂」、サッカーでは「怪物 ロナウド」など。
”怪物”はスポーツ界で用いられることが多い。将棋界はスポーツ界に近いだろう。
一方、芸能界では驚異的な視聴率を挙げている番組を「怪物番組」と呼ぶが、有望な新人が現れたとしても”怪物”という表現はほとんど使われない。
「演歌の怪物 藤正樹」という例があっただけだと思う。