ザ・王将戦(王将戦スポニチへ)

近代将棋2001年2月号、元毎日新聞記者の故・井口昭夫さんが王将戦の歴史を綴った「ザ・王将戦」より。

 昭和51年7月、将棋連盟と朝日新聞の名人戦交渉が決裂した。大山名人は毎日新聞を訪れ「名人戦を引き受けてほしい」と打診した。

 当時、毎日は経営が危機的状況で億を越す金を出せるとは世間では思っていなかった。毎日が断って読売へ行くと予想した週刊誌もあった。

 結論から言えば、毎日は苦しいながら27年ぶりの名人戦復帰に金を出し、再出発の目玉としたのだった。

 そこで問題になったのが王将戦をどうするかだった。なんとしても王将戦を持ちつづけたい、しかし、契約金は出せない、第一、掲載する紙面がない。

 大山名人は懇意だったスポーツニッポン東京本社の狩野近雄社長をまじえて毎日の幹部と会い、スポニチで引き受けてくれないものかと相談した。

 狩野は承諾した。しかし、大阪本社は別会社であり、分担金がからんで難色を示した。私は大阪に森口肇社長を訪ね、経緯を報告するとともに懇願した。氏は毎日の事業部副部長時代、高野山の対局を設営し、以後も大山と親しくしていた。

 大阪との交渉は長引いたが、ついに承諾し、スポニチは全社を挙げて王将戦の報道に取り組んだ。これほど大きく将棋を取り上げた社はかつてなかった。ふんだんに話題を取り入れ、将棋の普及に貢献した。

 毎日は王将戦から手を引いたわけではなく、七番勝負を現在も掲載している。

(中略)

 35期は中村修七段が初の王将位を射止めた。スポニチ紙が「受ける青春」のキャッチフレーズを作った。受けに独特の感覚を持つ棋士で、異星人、不思議流などのニックネームをもらった。2期つづけて敗れた中原が対局を振り返って「頭がウニになった」と分かったような訳のわからぬ名セリフをはいたのはこの頃である。

(中略)

 長い間、関東の独占となっていた王将位の”箱根越え”を実現したのは南芳一九段である。例によって口(?)の悪いスポニチは「お地蔵さん」というニックネームを進呈した。ちょこなんと座って動じない。この人ほど見事な正座も少ない。それに無口ときているから、ぴったりの気がしないでもない。

 南は矢倉を得意としている。相手の矢倉の玉頭に、頭突きのような攻撃を加えて粉砕した将棋が印象に残った。なるほど、地蔵さんかと思った。

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「受ける青春」や「地蔵流」がスポニチによるニックネームと初めて知った。

1980年代初頭のスポーツ紙らしい面白い表現だ。

これが東京スポーツだったならどのような表現をするか、興味深いところだ。

「大橋宗桂生きていた?」

「ゴキゲン中飛車爆死」

「佐藤康光電撃帰国、王将奪回計画語る」

「羽生善治も見たゴム人間写真独占!!」

「5人いた!ボンクラーズ影武者」

というような見出しは日常茶飯事という感じがする。