暗闇に消えた羽生善治五段

とても印象的な作品。

近代将棋2001年2月号、故・池崎和記さんの「私を変えたこの一手 浦野真彦七段の巻」より。

 昭和63年11月―。羽生善治とのC級1組順位戦を控えた浦野真彦は、対局前日になっても作戦を決めかねていた。

 鳴り物入りでプロデビューした羽生の強さは、もちろん浦野もよく知っている。

(中略)

 段位は五段でも、実力はすでにA級―と棋士のだれもが認めていた。その羽生と順位戦で戦うのである。

 東西に分かれていることもあって、羽生とはこれまで一度も対戦したことがなかった。その初めての対局が翌日に迫っているのに、作戦がなかなか決まらない浦野は焦りを感じていた。

 順位戦の組み合わせは、毎年春、抽選で決められる。いまはコンピュータを使っているが、当時は手合課の職員が札を引いていた。この抽選には関西の職員も参加する。

 羽生がC1に昇級してきたこの年、浦野はその担当職員に「頼むから羽生君を引いてくれ」と言った。どうしても羽生と戦いたかった。

 羽生にはすぐ抜かれると思っていた。順位戦も一回やれるかどうかだと。今年対戦がなかったら、二度と順位戦で当たることはないかもしれないのだ。

 だから東京から帰ってきた職員に「引いて来ました!」と言われたときはうれしかった。「ついでに村山さんも引いときました」と言われたが、村山聖とは他棋戦も含めて何番も戦っているので「そんなん、いらんのに」と笑って答えた。

(中略)

 将棋は人間と人間の戦いである。だから作戦は相手を見て決める―。これは浦野が棋士になってから一貫してやっていることである。

 対羽生戦が間近に迫ってきたとき、浦野(後手番)が考えていたのは三つの作戦だった。四間飛車穴熊。角道を止めてからのウソ矢倉。そして、2手目の△3二金。

 振り飛車あり、居飛車ありとバラバラだが、浦野は何でも指すから、最終的にはどれでもよかった。普通の矢倉をはずしたのは、研究量で羽生に負けていると思ったからだ。

 1図の△3二金は、簡単にいえば振り飛車を誘った手である。

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たとえば相矢倉になると、後手は飛車先を突かずに駒組みができるから、このぶん作戦の幅が広がる。だから△3二金を「悪手」にするためには、先手は飛車を振るしかない。

 羽生はまちがいなく飛車を振ってくる―。その確信が浦野にはあった。

 この△3二金は現在ではめずらしくないけれど、当時は”邪道”と見られていて、実戦例も2、3局しかない。うち2局を先崎学が竜王戦6組とC級2組順位戦で指していたが、浦野は一度もやったことがなかった。

 迷いに迷って「ウソ矢倉にしよう」と決めたとき、先崎から電話があった。対局でもないのに数日前から大阪に来ていて、一緒にマージャンを打ったこともあった。その先崎が「夕食でもどうですか」という。

 先崎の顔を見ると方針がぐらついた。将棋の話などしないのに、1図が浮かんで来てしかたがない。「これも何かの縁だ。ウソ矢倉をやめて△3二金にしよう」。そう決心した。

 一夜明け、その日が来た。

 関西将棋会館の下段の間。村山-泉戦と並んでの対局だ。上座に座って待っていると、羽生はギリギリの時間に走り込んできた。

 あわててはいるけれど、浦野にはそれが自然な感じに見え、「これは普通に矢倉組んでやっても勝てんな。勝負しようと思ったら、ハナから変なところへ引きずり込まんとアカン。やっぱり△3二金だ」と思った。

 羽生の第一手は▲7六歩。だが浦野は決めていた△3二金を着手するのに7分を要した。こんな手でボロボロに負けて後悔したら嫌だな、という気持ちもあったし、周囲の目との戦いもあった。隣室では名人(谷川浩司)が全日本プロを戦っている。きっと谷川さんは、あとでこの将棋を見にくるだろう。どう思われるだろう・・・。

(中略)

 羽生はなかなか指さない。△3二金に意表を突かれたのかもしれない。そして16分考えて指してきたのは▲5六歩。

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 何だろう、この歩は・・・。浦野は一秒も読んでいなかった。考えているうちに背筋が寒くなった。相手の狙いと意志がはっきりわかったからだ。

 後手は△3二金によってカベ形になっている。玉を囲いにくいから、先手が振り飛車にしようというのは普通の発想である。だが、この▲5六歩には「それでは許しませんよ。△3二金を直接とがめにいきますよ」という強い意志が感じられる。

 具体的には中飛車で中央から圧力をかけてくる。後手が5筋を受けるためには△5四歩のあと、△5三銀~△4四歩~4三金右の形で対抗しなければならず、そうなると3二金と2二の角は、相変わらず「カベ」として残ることになる。といって△5四歩を突かなければ▲5五歩と伸ばされ、この位が大きい。じっとしていると”にらみ倒し”みたいな感じで負かされそうである。

 そう思ったから浦野は△5四歩と受けた。5筋に争点ができるので、かえって危なくなる意味はあるが、こんなところでひるんではいられない。気合で指した。「ひょっとしたら敗着になるかもしれない」と思いながら・・・

(中略)

 ▲5六歩に驚いたのは浦野だけではなかった。あとから控え室にやってきた先崎は、棋譜を見てしばらく考え込んでいた。そして、そばにいた私に「わかりましたよ」と言い、局後、浦野には「▲5六歩はいい手だったなァ。僕もいろんな手を考えたけど、▲5六歩だけは考えなかった」と言った。

 浦野も先崎も頭の切れる棋士である。そろって▲5六歩に衝撃を受けたのだった。だが、羽生の構想がすごいのはじつはこのあとだ。

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 3図を見てほしい。後手は金銀で中央を守って堅いけれど、依然としてカベ形。この悪形を解消される前に決戦に持ち込もうというのが羽生の▲9六歩で、△8五歩を突かせて(あとからだと▲9七角と上がられる)▲7七角の形にし、▲8八飛から、狙いの飛車交換を実現させるのである。

 この構想は2図の▲5六歩と一本の線でつながっている。逆にいえば羽生は▲5六歩と突いたときから、この構想を描いていたということだ。

(中略)

 実際には、この将棋はのちに羽生にミスが出て逆転するのだが、終盤、浦野は時間に追われて勝ちを逃してしまう。以後、チャンスはなく、羽生は安全策を続けて勝利をものにした。終局は午前1時15分。

 感想戦には先崎も参加したが、あまり口は出さなかった。検討が終わり、羽生が席を立つと、先崎が笑いながら浦野に言った。

「△3二金上がるんだったら、ひと言いってくれたらよかったのに」

 前日、二人は一緒に食事をしている。そのとき浦野が作戦のことを話していたら、何かアドバイスできたのに、というジョークなのである。先崎は「浦野さんて、どうしようもない将棋で手を作るのがうまいですねェ」とも言って、浦野を二度、苦笑いさせた。

 だれかに「軽くどうですか」と食事に誘われたが、浦野はそんな気になれなかった。疲れていたし、食欲もなかった。

 居合わせた棋士たちと一緒に外へ出て、最初の交差点で別れた。羽生もいたので、別れ際に「ちゃんと全部勝って上がってくださいよ」と言おうかと思った。迷っている間に、羽生は横断歩道を渡って見えなくなった。

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故・池崎和記さんの「私を変えたこの一手」、連載の第1回目がこの「浦野真彦七段の巻」。

この頃の浦野真彦七段を、池崎さんは昭和61年の観戦記で次のように紹介している。

 愛称はマッチ。写真でご覧の通り。きゃしゃな体型。体重は、女性もうらやむ四十二キロ(神吉四段の三分の一)。ダイエットしているわけじゃないし、むしろ「もっと太りたい」とセッセ、セッセと食べるのに全然効果がないらしい。

当時は歌手の近藤真彦さんが大活躍をしていた時代。真彦なら”マッチ”という愛称になるのは当然とも言える時代背景があった。

ちなみに浦野真彦七段と近藤真彦さんは同じ1964年生まれだ。