森信雄六段(当時)インタビュー

今日放送されるNHK将棋フォーカスは「躍進!森信雄門下」。

そういうわけで、今日は森信雄七段。

近代将棋1993年5月号、「棋士インタビュー 森信雄六段の巻 光と影と感性と」より。

 昨日の順位戦はいかがでした。

 「おかげでなんとか・・・」

 とすると4勝ですから(降級点は)もう大丈夫ですね。

 「ええ、まあ」

 はじめ1勝5敗から3連勝したわけですけど。

 「私はのん気なので降級点はそれほど意識してなかったんです。でも勝負の世界には向いてなさそうで。時々やめたいなあと思ったりすることもあります」

 将棋やめたらカメラでやっていくとか。

 「それは全然考えてません。それに、もし写真家になれたとしても、食っていけないだろうなとおもいます。写真は大好きですが」

 なかなか感度がいいと思っている人が多いですよ。

 「写真家の人に言われたのですが、アマは最高の出来がその人の評価で、プロは一番最低の出来がその人の評価。なるほどな・・・。讚められるとすごく嬉しいんですが、写真は撮っているだけで楽しいんです。絵や音楽も好きになったのですが、みんなちょっと遅い・・・」

 インドや中国へ旅行した時の写真がとても良かった印象があるんですが、割合アジアが性に合いますか。

 「それはよく聞かれるんですが、あまり理由はなくてあえていえば安いから(笑い)。ホントは世界中どこへも行きたいです。外国にいると自分を客観的に見つめ直せるような気がします。それと外国では一人でいるのが当たり前で、むしろ国内にいたほうが孤独感があったりします。なんとなく時々異国でポツンと一人でいたくなるんです」

 貧しい国は人情があるとか。

 「必ずしもそういうふうには思いません。やはりいい面もあれば悪い面もある。そんなに問題意識を持って旅しているわけではありません・・・」

 写真家の藤原新也さんの影響は受けていますか。

 「というよりも藤原新也さんのファンです。全東洋街道とか。藤原さんは写真家というより作家とか・・・」

 思想家とかまたは表現者とか。

 「そうですねえ。東京漂流なんか、写真も文章も大好きですね」

 もっとうまくなりたいですか。

 「素直な写真を撮りたい。それと写真撮って喜ばれるのが嬉しいです。先日も知り合いのひとの娘さんの和服姿を撮ってとっても喜ばれて嬉しかった」

 うまい、と言う場合、カッコ付きで讃めるでしょ。たとえば棋士としては◯◯がうまい、女流としてはとか・・・。

 「それはすごく自覚しています」

 さきほどやめたいと思ったりすることがあるとおっしゃったけど、その素はなんでしょうね。

 「もともと私は高校出て会社に勤めたあとプロに入ったんです。奨励会試験を受けたら受かっちゃった。将棋は弱いし年齢制限を超えていた時もあって、いつ辞めろといわれても不思議ではなかった。おどおどした不安感がありました。馘(くび)になったらどうして生きていこうか。なにをして食っていこうか。今も少しそんな気持ちはあります。将棋界に入った動機が食うためだったから純粋じゃないかもしれませんね」

 不安感というのは多かれ少なかれ自由業に近い人は持っているんじゃないでしょうか。

 「今、若手の棋士でもそうとう危機感はあると思います」

 たとえばどんなこと。

 「制度が風通しのいい厳しさであるならいいのですが、C級2組や奨励会三段リーグを見ると夢をなくしてしまうんじゃないか・・・。特に三段リーグは将棋界の将来の不安につながってしまうのでは・・・。棋士を目指さなくなる。それからトーナメント一本で食っていけない時の経済的不安さ」

 稽古じゃ食べれませんか。

 「これからはレッスンや普及一本の棋士も必要なのではと思います。将棋ファンは将棋を指してさえいれば楽しいという人が多いので、棋士との接点が少ない。自分の棋士としての存在感は何かなあと考えるとちょっと淋しくなります」

 ファンからのイメージはどうなんでしょうね。

 「この間高校選手権の会場で顧問の先生方にアンケートをとったら、棋士は遠い存在で高い(値段)というイメージでした。強さから見ると雲の上の存在、でも普及への不満も声が大きい印象でした」

 危機感というのは生活の面だけですか。

 「はじめは誰しも名人への夢を抱いて入って来るのでしょうが、私は晩学のせいもあってそれほどの気持ちはなかった。ただ将棋以外に選ぶ道がなかったような気もします」

 そうですか。

 「アマの人からみると将棋はお金がかからないもの。プロから見ると将棋にお金を使ってもらえない。そんなファンが多い。これが現状のように思います。私は普及ということばを錦の御旗みたいな感じに使うのはどうかと思います。普及の面と連盟の利益のための営業の両面があるわけですから。連盟がなくても将棋を指す人はなくならないし、ずっと続くと思うんです。棋士が日本で百人しかいないというのはあまり関係がない。将棋の面白さをもっと多くの人が知ってくれたらなあと思います」

 普及にたいする森さんの感覚は在野の将棋好きが時々感じることで、プロ棋士でもそう思う人がいたことに感心した。でもこれだけ自分に正直な人は組織の中では異質になるのでは・・・。

 「私将棋界に入ったのがあいまいな動機だったので少し負い目を持っています。それは今でも、将棋界には疑問を感じることもありますが、将棋は好きだと自分で思います。おんぶされながらどっぷり漬かっている面と自分の人間としてのプライドみたいなものの葛藤がある。棋士をやめたほうがいいのかなあと真剣に考えたことはあります」

 将棋のプロ棋士としての話と思えば、かなり過激に聞こえるかもしれないが、サラリーマンに置き換えてみればどこにでもある話だ。普通に勤めているが今の仕事には迷いはある。入社の動機もやや不純かもしれない。仕事のことで理不尽に頭を下げるのは嫌だ。人間としてのプライドも弱さも持っている・・・。

 「私は将棋界はあまり好きではないのですが、将棋は今でも大好きです。それが支えになっています」

 将棋って、勝つと気持ちが最高にいいけど負けるとこんなに面白くないものもない。それはプロもアマも同じでしょうね。

 「プロのほうがその感じが強いかもしれません。そういう意味でもこの間週刊将棋で自戦記書かせてもらったの、嬉しかったなあ」

 将棋の成績で満足が得られない場合余技である写真で得られますか。

 「写真はとても心が安らぎます」

 では、スーパートリックや詰将棋では。

 「たいしたものつくれませんけど、詰将棋は好き。スーパートリックは創作はきついけどハリがあります」

 でもトリックは森さんの世界ですから強みがある(笑い)。

 ところで関西奨励会員が17歳三段で将棋を辞め話題になりましたが、元奨励会幹事としてはどう感じましたか。

 「はじめはショックで淋しいなあと思いました。ただ、医者になるから将棋を辞めるというのではなく、成績が悪いから将棋を辞めるというふうに言って欲しかった・・・」

 将棋は本当に世の中のためになるのか医者ならば貢献できるんじゃないかと悩んだらしいですよ。

 「世の中のためになる医者の道も立派だけど、残った仲間への誠意も欲しかった気がします。T君の行動は将棋界の一つの象徴なのか、個人的な問題意識なのか、よく分かりません」

 山田道美九段の日記にも将棋が果たして世の中のためになるかと悩み、医者になってジュバイツァー博士のもとに行きたいと記してある。同じ悩みの棋士はかなりいるようだ。

 ところで、森さんのお話を伺っていると、そんなに自分に正直にしゃべっていて疲れませんか。

 「疲れるとけっこう尾をひくんです。それからこんなこと言ったけど相手をキズつけたんじゃないか、とか・・・」

 東京へ来ると何日かいるようですけど人に会うんですか。

 「火曜日に対局があると金曜までいて、土曜には教室があるんで大阪へ帰る。ですから水曜、木曜はボーと一人で過ごしたり、人に会って飲みに行ったりしています。私はいつも本音でしゃべっているつもりなんですが、人と話すとどっと疲れが出ることもあります。部屋で一人静かにいるほうがいい。音楽を聞きながら水槽の熱帯魚を見ているときが安らぎます。自分で情緒不安定人間だなあと思います・・・」

 いかがでしたでしょう。森さんの写真に現れた感性が、多少は活字に映し出されたでしょうか。自分に正直に生きることはそうとう疲れるでしょうが、ユニークな存在ですからいつまでも棋士として将棋のファンにその姿を見せて欲しいものです。

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この頃から、森信雄六段(当時)が撮る写真が素晴らしいと話題になっていた。

1993年の将棋ペンクラブ大賞では、森信雄六段のエッセイ(風景、御蔵島行、写真も含める。掲載誌「将棋世界」)が一般部門佳作を受賞している。

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このインタビューは、森信雄七段が結婚をする10ヵ月前、山崎隆之少年が弟子入りしてから半年後の頃のこと。

まだ奥様とは知り合う前だった。

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インタビューの3ヵ月前の出来事。

近代将棋1993年3月号、故・池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 午後1時から森、東、脇、浦野、池崎の5人で忘年マージャン大会。東京で王将戦の挑戦者決定戦(米長-村山)が行われているので、マージャンなんかしている場合ではないのだが、大会は前から決まっていたことなので仕方がない。”雀聖”浦野の一人勝ちだった。

 夕方から同じメンバーで、東さんの七段昇段祝賀会。ちゃんこ鍋をつつく。森さんはあまり食欲がないようだった。やはり村山さん(弟子)の将棋が気になるのだろう。連盟に何度か電話したが、まだ終わっていないというので、、もう1回マージャンをして時間をつぶすことにした。ところが今度は電話がつながらない。「明日になればわかるのだから」ということで、結局、深夜に散会。

某月某日

 王将戦は村山さんが勝っていた。

(以下略)

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ネット中継のなかった時代。

今なら麻雀をしながら対局の進行が把握できるわけだが、それはそれで麻雀の負けはもっと大きくなってしまいそうだ。

村山聖六段(当時)が谷川浩司王将(当時)への挑戦を決めた日。

弟子思いの森信雄七段らしい1992年師走の光景。