振り飛車党受難

近代将棋1991年4月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線」より。

 小林健二八段、森安秀光九段と振飛車党の実力者が相次いで昇級を決めた。前号で残した宿題が、表題の「振飛車は復活するか」という命題であった。

 少し前号をおさらいしてみよう。昭和58年度の振飛車は、374勝468敗15引き分けで、勝率4割4分4厘。これでは振飛車党が大挙居飛車党へと避難してしまうのは当然である。

 この10年の間に、振飛車党から居飛車に転向した有力者に、谷川、南、桐山、森、福崎、勝浦などがいる。この事実が振飛車の苦戦を物語っているのだが、同時にそれは振飛車の技術の進歩の上でも大きなマイナスであった。

 この振飛車苦戦の有力な一因となったのが居飛車穴熊の出現で、この昭和58年度の振飛車の対居飛車穴熊の勝率は、なんと4割1分7厘の非常な低率なのである。

 これに敢然と立ち向かった棋士も多かったが、そのほとんどが名誉ある討ち死にを遂げた。当時からずっと振飛車党だった代表的な棋士に、佐藤大八段、山口英七段、山口千七段などがいるが、居飛車穴熊を契機として、急に勝率が落ちて今日に至っている。大山十五世名人や森安九段とはいえ、その例外ではないのである。

 さて、米長王将が「これからは再び振飛車が流行する」というので調べてみたのだが、平成2年度途中の振飛車は、322勝461敗16引き分けで、勝率4割1分1厘と昭和58年当時よりさらに悪化しているのである。それでは居飛車穴熊に対してはどうかと集計してみたが、平成2年度途中集計ながら52勝113敗5引き分けで、勝率3割1分5厘とダブルスコア以上の惨憺たるあり様で、なんの良い前兆も感じられなかったのである。

 これでは私には振飛車が再び流行するとは理解できないが、前号でもふれたように小林健八段など振飛車を指す棋士が増えたのも事実で、根っからの振飛車党である森安九段が復活してきたという現象にもその兆候は現れてきているのだ。勝率の集計をする事も、大いなる難事であったが、これでは個々の棋譜を調べてみなければ一定の見解が出せないようである。ということでまたまた次号に続く。

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この当時の振り飛車の勝率がこれほど悪かったとは驚いてしまう。

居飛車穴熊の元祖は田中寅彦九段。

それまでもプロ間で居飛車側が穴熊に囲うという例はあったが、プロの戦法として定着させたのが田中寅彦九段。

田中九段が居飛車穴熊で抜群の勝率をあげ続けるとほかの棋士も用いるようになり、居飛車穴熊が全面的に猛威を振るうようになった。

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将棋史の中での振り飛車盛衰の歴史は非常にドラマチックだ。

それまで当たり前のように指されていた振り飛車が江戸時代中期に衰退。

その頃の振り飛車は、ただ受けるだけで、相手が間違ってくれるのをひたすら待ち続ける戦法だったので、そのようになったのも無理はなかったのかもしれない。

振り飛車が復活するのは昭和20年代。

大野源一八段(当時)の「攻める振り飛車」の登場が振り飛車革命とでも言うべき位置付けとなる。

関東では、松田茂行八段(当時)がツノ銀中飛車で暴れまわっていた。

そして昭和30年代、大野八段の弟弟子である大山康晴名人、升田幸三九段が振り飛車を指すようになって振り飛車全盛期が始まる。

大野源一八段の振り飛車(特に三間飛車)の捌きは神業そのものだ。

大野の三間飛車(1)前編

大野の三間飛車(1)後編

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昭和30年代から40年代前半、その振り飛車に敢然と立ち向かって数々の急戦での振り飛車対策を編み出したのが山田道美八段(当時)と加藤一二三八段(当時)。

玉頭位取りは昭和20年代に灘蓮照八段(当時)が開発している。

(つづく)

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