スーパー四間飛車と世紀末四間飛車

1990年代前半、振り飛車党にとっての冬の時代に振り飛車復興の狼煙を上げた棋士たち。

将棋世界1992年10月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『少数派』」より。

 小林健二(35歳、八段)はオール四間飛車でA級にカムバックした。1990年から1991年にかけてのことだ。

 順位戦B級1組11戦をすべて四間飛車。10勝1敗、昇級。居飛車・攻め将棋からの鮮やかな転身であった。

 転身の理由を小林は言う。

 「直接のきっかけは、応援してくれていたある将棋ファンから『なぜ矢倉ばかり指すのか。お前が本物のプロならば、もっとファンに分かりやすい将棋を見せてみろ』と言われたこと。常々『居飛車穴熊は将棋界のガンだ・・・これがプロの将棋をつまらなくしている』と思っていた。よーし、ガンをやっつけて自分の存在価値をしめそうと・・・」

 敬愛する板谷進九段の死、その悲しみとの訣別も”伏線”にあった。

 いつまでも師匠を失った心の空白を引きずっていては、ナミハチ(並みの八段)になってしまう。精神のチャンネルを切り換えなければ。きっかけを求める心に、ファンからの直言が結びついた。

 故・大山康晴と森安秀光の実戦譜をくり返し研究した。関西将棋会館の近くに「研究部屋」をつくり、1日最低3時間、多い日は10時間のレッスンをみずからに課した。

 「将棋の勉強に打ち込むから、収入が減る。しばらくはしんぼうやで」

 家人に宣言し戦法転身の日々が始まった。居飛車穴熊の弱点は何か。四間飛車の長所は何か。毎日そのことを考え続けた。

 「自分の棋風は攻め八分、どうして攻め急ぐ気味があった・・・ところが振り飛車は攻めの力をためる。相手に先制させての駒さばきで局面を良くしていく。相手の先制を許すということは、こちらが先に駒をもらうことだ。先制させての反攻は、駒得のぶんだけ切れない・・・ここのところの感覚が分かりはじめたので、『よし、公式戦で用いてやれ』と」

 振り飛車転身1年目、7割近い勝率を得た。2年目、やはり6割台後半の勝率。

 ヒット・アンド・アウェイというのだろうか。小林流振り飛車は一手ごとに突き刺すようなパンチ力があり、前進と待機のリズムが鮮やかで、陣形に厚みがある。「にわか振り飛車」と見ていた棋士仲間も、その高勝率に対策を練りはじめた。

 そしてことし3年目―。

 5割を切る大幅な勝率ダウン。棋士たちは小林に対し、居飛車穴熊を捨て、速攻に切り換えたのだ。

 「野球にたとえれば、イビアナというフォークボールに的を絞り快打していた打者が、突然速球で押され、打撃の感覚が狂った・・・と同時にフォークボールも打てなくなった。そういう状態です」

 と小林は苦笑する。

 「高勝率に舞い上がり、研究部屋にこもらなくなった・・・そこに低迷の原因がある。この夏、雑用を整理し『6勝1敗の生活』に切り換え、冬場から再び火を噴きます・・・そう書いといて下さい。ええ、『6勝1敗』です」

 「6勝1敗」とは、1周間のうち6日を研究に当て1日を休む、そういう生活のリズムを指している。研究しない日を「負けの日」、研究した日を「勝ちの日」と計算して。

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小林健二八段(当時)の「スーパー四間飛車」の居飛車穴熊対策は、(美濃囲い+▲5六銀型)が基本形。

・銀冠から▲1九飛の地下鉄飛車

・▲9七角~▲4八飛~▲7七桂型

・▲3九玉~3七桂型急戦 

・▲4八玉~1七桂馬型急戦

などのバリエーションがあり、研究に裏打ちされた斬新な指し方だった。

居飛車感覚が多く取り入れられている。

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将棋世界同じ号の、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『少数派』」より

 「プロの間で、四間飛車に対する居飛車側からの急戦策は、20年このかた進歩していない」

 櫛田陽一(27歳、五段)は、ずばりと言う。

 「かつて故・山田道美九段が、大山名人の振り飛車を撃破するため、急戦速攻手順の研究に力を注いだ・・・しかし、現在のプロの指す手は頭位の研究成果から多くを出ていません。アマ高段者の方がずっと進んでいます。アマ間で『これにて先手悪し』と結論が出ているのを、プロ棋士が知らない。これ、本当のことですよ」

 アマ三段の少年時代、勝浦修著『四間飛車好局集』を買い求め、熱心に読みふけった。「四間飛車ってのは優秀な戦法だな」。いらい、振り飛車党に。それも先行逃げ切りぶっち切り型の振り飛車である。

 1987年、攻める振り飛車を武器にプロ入り。たちまち第6回全日本プロ将棋トーナメント(1987年)決勝戦におどり出た櫛田は、2年後の第39回NHK杯争奪戦に優勝―。

  NHK杯戦で、真部一男プロの序盤からアクセル全開で突っ込んでくる速攻にひるまず、櫛田も全速でコーナーを奪いにいった。あの一戦は実にスリルがありましたねえ、TVの前で手に汗にぎりましたよ。

 「見せてゼニの取れる将棋でした・・・しかし、真部八段だからこそ勇気ある急戦を選択した・・・殆どのプロは居飛車を持って四枚美濃(左美濃)か、居飛車穴熊です。まず、急戦策は採ってこない」

 なぜそうなのか。櫛田は言う。

 「負けない指し方というか・・・居飛車側が、自分で序盤から手をつくって局面を良くしようとする、その努力の放棄です。これが将棋の進歩を大きく遅らせている。イビアナで玉を固めて、粘っているうちに何とかしようという思想が、プロの世界に広がっている」

 「大ていが四枚美濃かイビアナ・・・攻める振り飛車を避けよう、躱そうという姿勢です。この傾向が続くかぎり、ぼくは誇りを持って飛車を振り続けます」

 プロになって今日まで、公式対局は200局。うち7割は四間飛車。2割が三間飛車だという櫛田は、みずから『世紀末四間飛車』を出版。これ、よく売れていますね。

 「自分が実戦を通して得たマル秘の手順・・・それ盛り込まれています。アマチュアの間に、振り飛車はいぜん人気がある・・・振り飛車の方から手をつくって優位に立つ、その醍醐味を味わってほしい。四間飛車はすぐれた戦法です」

 櫛田の心に深く刻まれている局面。それは6年前、王位戦で中村修プロとぶつかった時、中盤の入り口で「振り飛車良し」の変化に入った。しめたと思った。

 次に相手の指した一手を見て、櫛田はがく然とした。まったく新しい手、「中村新手」が出現したのだ。手をヨメばヨムほど振り飛車悪し。相手の研究の網に引っ掛かったことを櫛田は知った・・・。

 この時の「中村新手」がどのようなものかは前出『世紀末四間飛車』を読んで頂くほかないが、「対振り飛車戦法での独創」として、櫛田は心中ひそかに敬意を払っている。

 「目下の最大の敵はイビアナです。向こう10年以内に『居飛車穴熊を粉砕する四間飛車定跡』を編み出し、アマチュアの方々に決定的なプレゼントとしたい・・・」

 プロ棋界をおおう「負けない思想」。これに対し「序盤から良くする思想」が退却してはならない、と櫛田は言う。

 「少数派?仕方ないですね。のらりくらりと結論をただ先にのばすイビアナの多数派に未来はない。序盤から一手ちがいで白熱していく・・・アマチュアの方々に見て楽しんでもらう将棋を指す。それが本当のプロであると信じます」

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櫛田陽一五段(当時)の世紀末四間飛車。

オーソドックスな形の四間飛車から優位を築く思想なので、アマチュアの振り飛車党にとっては非常に参考になる指し方が多く現れる。

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このような動きに対して居飛車側の急戦定跡も進化していく。

それらを明示的に体系化したものが1992年に発行された羽生善治二冠(当時)の『羽生の頭脳』だった。

(つづく)

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