女性らしい視点溢れる観戦記。
将棋世界1992年2月号、林葉直子女流王将(当時)の’91JT将棋日本シリーズ決勝〔羽生善治棋王-有吉道夫九段〕観戦記「やったね、羽生くん!!」より。
「羽生くん、髪どこで切ってるの?」
ごく普通の髪型だがどこかヘンだ。
「床屋ですけど・・・」そう答えて彼は質問の意図が読めたのだろう。すぐに
「今朝、時間がなかったもので・・・」
と、ニガ笑いしながら頭に手をあてた。
なんでも前日対局で深夜3時に帰宅したとのこと。
「それでネ」と私が言うと恥ずかしそうに少しハニかみながら「はぁ・・・」とまた頭に手をあてるしぐさ。
女性の目から見て、羽生くんという男の子は、ちょっとからかいたくなるタイプである。ほっとけない―ともいえるのか。
静岡で行われた’91JT将棋日本シリーズの決勝戦前日祭インタビューで彼は大勢の人を目の前にし、本当に緊張した面持ちで
「緊張していますが・・・明日はがんばります」と、非常にさわやかに答えていた。
この決勝戦の聞き手という大役を仰せつかった私と記録の高群女流は
「あの初々しさがいいよね―」
と口を揃えたものだ。
紺色のスーツにエンジ色の水玉ネクタイ姿。ちょっとハネた髪がいい。
「棋王」だというのに将棋盤を離れれば普通のやさしく真面目な青年。
人前で照れても、盤に向かうと別人。
前日祭の会場でファンに囲まれて写真を撮って下さい、と言われても翌日の気負いも見せず終始さわやかだった。
対する有吉九段。
オシャレなスーツをお召しになられていたので
「ご自分でお選びになられたんですか?」
と尋ねると
「そう、これは、そうなんですよ」
とニッコリ。
紺地に渋い赤の小さなミラショーンという一流のブランドのマークが入ったものである。
「ボタンの柄と同じ模様なんですね」
と言うと、有吉先生がまたまたニッコリ
「これは、なかなか気に入ってるんですよ」
とほんわりと柔らかい口調。
この決勝戦の解説をなさった中原名人を東の太陽とすれば、有吉九段は関西在住なので西の太陽となるであろう。
前日祭のインタビューで羽生棋王のあとにコメントされた有吉先生は、もの凄く控えめに、やんわりとした口調で
「今回のこのトーナメント、苦手な人(米長、南、塚田)ばかりでしたが、運よく勝てたので嬉しく思います。ツキに頼るのはおかしいけど、ツキに頼らないと羽生棋王には勝てないでしょうから。しかし、最近、勝つ気でやっても負けることが多くなりましたけどね」
とニッコリ笑い、場内を沸かせていた。
それを訊いた私と高群女流、
「有吉先生って人柄が言葉に滲み出てるよねぇ」
とステージ上の先生に拍手。
解説の中原名人は、両雄の述べたコメントを耳にして笑みを浮かべながら
「年の差が35かあるんだけど、有吉先生が若くみえるのかナ・・・あんまり変わらないように見えるね」
と、おっしゃっていた。
人前で緊張している羽生棋王。
しかし将棋では、落ち着いていて動じないということからJT杯ニックネームが泰然流。
温厚なお人柄で雰囲気をなごませてくれる有吉九段は、将棋のニックネームは火の玉流。
熱く燃えるような若々しい攻め将棋を見せつけてくれるからであろう。
前日祭では、勝負師の仮面を両先生ともにつけていなかった。
12月15日。
入場無料のビッグなこの’91JT将棋日本シリーズ会場、静岡市民文化会館前は、開演前から長蛇の列。関係者の話によるとなんと800人もの行列ができていたというのだから驚く。
羽生VS有吉、そして解説が中原名人とくれば、将棋ファンが見逃さないわけない。そして将棋界のアイドル高群女流が読み上げ。私は聞き手、本戦前のお好み対局を地元アマ強豪と指すという役割。
(中略)
本戦決勝の前にお好み対局として私と地元アマの迷対局をファンの方々がご覧になられている最中、両雄は楽屋入りし袴姿に変身。
なんでも、有吉九段は羽生棋王より20分遅れで到着したそうなのだが、ほとんど同じくらいに控え室を出られたそう。
羽生棋王の袴姿は何度か拝見したがこの日は、とくにキマッていた。光沢の淡いブルーの布地がよく似合う。
有吉九段は、渋い深みのある茶色の重々し気な袴姿。有吉九段の気品を十二分に発揮させていた。
会場に到着したお二方、昨夜とは違う勝負師の仮面をすでに被っていた。
会場の90%が男性で、女性の黄色い声援はなかった。
「キャーッ、羽生棋王」
「キャーッ、有吉九段」
と、相撲人気のようになったら、さぞかし・・・将棋のプロは面食らうだろう。
駒を並べ始めると、場内のざわめきがなくなり1500の観衆が息をのんでそれを見守っていた。
(中略)
トップ棋士12名の中で、この栄冠を手にした羽生棋王、本当に嬉しそう。
場内のお客さんも、羽生棋王の笑顔に大満足だった。
ただ、・・・大観衆の中で有吉九段が敗れ心から残念だナと思った人が一人・・・。
将棋ファンなら、どちらが勝っても身近で見れればそれだけで幸せなのだろうが、有吉九段の奥様が、先生に内緒でこっそりいらしていたのだ。
きっと、有吉九段が投了した瞬間、手にしたハンカチを握りしめていたに違いない。
勝負を終えた有吉九段は美しくやさしそうな奥さまと東京に用事があるのでと、楽屋に戻られたあと直ぐに引き揚げた。
勝った羽生棋王は、取材等で大忙し。
軽い打ち上げで、広津先生おすすめの”三昧”という洒落たお店へ。
静岡の名酒といわれる純米酒を口にしながら羽生棋王はおいしそうに
「口あたりがいいからどんどん飲めそうで恐いですね」
とグラスをしばしみつめる。
「お酒強いんでしょ?」
というと
「いいえ、林葉さんほどは・・・」
と青年羽生くんは笑っていた。
新幹線に乗るまでの小一時間ほどの打ち上げを終え、グリーン車で東京まで。
ぐっすり眠っていたのだろうか、
「じゃあ、お疲れさま」
と羽生くんに手を振ると、前日見た髪型と同じく、ちょっとうしろ髪がハネていた。
―疲れていたのだろう―
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若い頃の羽生善治三冠のトレードマークであった寝癖。
おそらく、林葉直子女流王将(当時)のこの記事が、羽生三冠の寝癖について日本で初めて言及した文章かもしれない。
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1996年には、湯川恵子さんが羽生七冠(当時)の寝癖について書いている。
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この時、羽生善治棋王(当時)はJT将棋日本シリーズで初優勝。
優勝を決めた直後に飲む酒は、格別に美味しいことだろう。
ビールだけでは味気ないし、ウイスキーだと長丁場になりそうだし(私の場合だが・・・)、ワインでは食事っぽくなるし、ウオッカやテキーラでは少し違和感があるし、やはりこのような場では日本酒がピッタリなのかもしれない。
心地良い酒の後の睡眠、新幹線で1時間前後眠っただけで寝癖がついてしまうのも分かるような感じがする。