昨日からの続き。
将棋世界1995年12月号、内藤國雄九段の連載エッセイ最終回「胸につかえること」より。
「羽生が、あのケロッとした顔をして対局室に入ってきた」 東公平さんの観戦記の書きだしを見て、思わず「うまい!」と感心する。
いかにも実感が出ているのである。
むかし山田道美さんが「我々が心血を注いだ棋譜に観戦記というボロ布を着せて…」と言って物議をかもしたことがあった。いま当時のものを読みなおしてみると、山田さんの気持ちも分かるような気がする。実際ひどい観戦記があったのである。
「観戦記者は大変だよ。立会人は将棋が終わればおしまいだが、観戦記者はずっと対局に付き合って、それからが仕事だからね」。加藤治郎大先輩の言葉である。加藤長老は大試合の立会人を幾度もつとめる一方、三象子というペンネームで名観戦記を綴られた。
昔は対局場に姿を見せないで適当に書き上げる人もいた。不思議なものでそういう観戦記ほど、飛と打ち込んで旨そうに煙草を吸ったとか、仕方あるまいとつぶやきながら玉をかわしたとか、さもその場にいたように書く。
「大山は意地で飛車を振った」 こう書いた観戦記者がいた。意地もなにも大山名人は振り飛車が得意だった。
あれは私が棋聖で大山名人が挑戦者であった。前夜祭で、私が新幹線に乗って東京四谷の料理旅館に駆けつけたとき、酒を飲まない大山さんの食事は終わりかけていた。
この人は自分の食事がすむと早々に急がせるように麻雀を始める。自然麻雀好きが取り巻くようになる。それはいいのだが、ゆっくり飲みたい人、会話を楽しみたい人達には辟易ものである。傍でガチャガチャやられては気分が殺がれること甚だしい。私がお膳の前に座ったとき、部屋に麻雀卓が運びこまれ、周りのお膳も片づけられる始末でとても食事がとれる雰囲気ではなかった。
後にF記者は棋聖戦の思い出としてこのときのことを次のような文章で綴った。
「内藤の顔色がさっと変わった。無言で立ち上がると足音も荒く階段を駆け登っていった」 そして内藤が対局拒否を言いだすのではないかと周章狼狽するのである。こういうことが本誌に載ると、それを見たある評論家がまた次のような趣旨のことを書いた。「これは遅れてきた内藤が悪いので、男のヒステリはみっともない。超一流料亭なら、遅れたら食膳を片づけるのは当然だ」 この記事を読んでも別に抗議するほどの怒りはなかった。別にこんなことが世間で話題になることもないんだからと。しかし、やはり胸の奥深くにつかえるところがあって、いつかはこれをほぐしておきたいと思ってきた。あれから25年もたって、もう誰の脳裏からも去っているような些細な出来ごとをいまさら取り上げることを許して頂きたい。
まず気になる文章は「超一流料亭なら…当然」というくだりである。この断定はいただけない。遅れたといっても6時半を少し回った程度で、これはまだ夕食の時間内である。
一応は酒も出る「前夜祭」が、こんな時間で終わりになるというのは常識では考えられない。超がつけば尚更のこと、来ると決まっている主賓の食膳を麻雀のために片づけるという無法なことはしないもの。しっかりした仲居なり女中がいたら、こんなことはしなかったろうと思う。
しかしこの場合は無理のない事情もあった。第一人者が、人を集めて早く麻雀をしたいという。
周囲が顔色をうかがうのは、まあ自然といっていいことで、責める気はない。
この料亭はそれまでに幾度も使っているから、将棋界は(升田さんが出た時以外は)これでいいんだという、一種の慣れ、あえて言えば、ワル慣れが出来ていたこともあったと思う。
私が述べたいのは、これからである。
実をいうと、私は食膳を片づけているのをみて「有り難い」と思った。食事は自分の部屋で一人ゆっくりテレビを見ながらとることができる。酒も飲まなくてすむ、助かった。
そう思って、嬉しくてさっと席をたったのだが、それが気のやさしいFさんには怒りの現れと映ったのである。そこで対局拒否でも言いだしたら大変だと、当時理事会総務の芹沢さんを伴って私の部屋まで追いかけることになる。総務というのは主に重要対局の世話係という役目。
二人が外に出ようという。困ったことになった、と私は思った。こんな気の合う人達と出掛けたら飲みすぎるに決まっている。
だいたい6時開始の宴会に遅れて入ったのも、酒を飲む時間を短くしようと思ったからである。
「今日は一人で食事をする。もういいから」と断っても、私が怒りに狂っていると信じこんでいる二人はどうしても引かない。
相手に悪意があるのならこちらも好きなことを言えるのだが、悲しいことに私を慰めてやろうという善意の固まりである。それには勝てなかった。
そこで「嫌がる内藤を無理に連れだして」飲むことになるのだが、続いて内藤が荒れてよっぴで痛飲する様が描かれる。
荒れたのは大山さんに対する感情ではなく、タイトル戦前夜にこういう羽目に陥った自分のふがいなさにイヤ気がさしたからなのである。翌日の対局については、当然もう言うまでもない結果になった。話は、しかしこれで終わらない。
先のFさんの原稿は20年近くたってから書かれたものだが、実は対局が行われた翌月の本誌にもっと細かく書かれたものが掲載される予定だった。
「大山さんに失礼になるといけないので、十分注意して書いたつもりですが念のため目を通しておいてくれませんか」。書き上げたばかりの原稿をFさんは熊谷八段(関西本部常務理事)に見せた。熊谷さんは繰り返し読んで「これなら大丈夫です」と答えた。
10日ばかりたって、東京で対局があり、深夜芹沢さんと二人で軽く一杯ということになった。雑談の合間に「ああそうそう、この間の四谷でのこと、Fさんが将棋世界に書きましたよ」。アハハ、と軽い気持ちで私が言った。すると芹さんは突然はっとした様子になり、「用事があるのを忘れていた。悪いけど先に帰るよ」。
いつもの芹さんと違う。何か変だと思ったが、将棋連盟会長にご注進するために店を出たことが後で分かった。若い時の芹さんは後の「開き直った」ような生き方とは逆に、小回りのきく、いわばオッチョコチョイなところがあった。
寝入りばなを電話でおこされ、ご注進を受けた会長は驚いたに違いない。月末で原稿は印刷所に回っているから内容を知ることも出来ない。事情が分からないまま、会長は編集長に連絡をとり、「神戸から内藤が遅れて旅館にかけつけた」というくだりから、後の部分の削除を命じた―。
編集長は一応原稿に目を通しているはずで「もう印刷されているし、心配されるようなことは書かれていませんから」と、このとき何故がんばらなかったのだろう。
そして、中身を抜かれ、頭と尻尾だけになった原稿が掲載されることになる。
熊谷さんが激怒し、会長に抗議した。
「新聞記者の原稿を無断で変えてしまったりして、これは正式に抗議されたらえらい問題になることですよ。その辺のところ考えてるんですか!」
会長は静かな声で応えた。
「どうもすいませんでした。削った部分だけ将棋世界に載せるようにしましょうか」
―とにかく”事件”のあらましは以上のごとくであり、これで消えていったのである。
(以下略)
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内藤國雄九段が7年間連載してきたエッセイの最終回。
この棋聖戦第4局は、1970年7月に行われた。
後半部分の、熊谷達人八段(当時)や芹沢博文八段(当時)が将棋世界掲載の原稿の件でいろいろあったというのは、1970年のこと。
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福本和生さんは今年の1月に亡くなられている。
将棋世界2015年3月号では、内藤國雄九段が追悼文を書いている。
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一緒に酒を飲んでも取材しきれないことがある。
あるいは思い込みが真実を見えなくするのか。
どちらにしても、書くということは本当に難しい。