1982年の奨励会試験で十分な成績をあげながら入会ができなかった村山聖少年だが、村山少年のこの時の入会にクレームをつけたのが灘蓮照九段だった。
村山聖九段のお父さんが最初にプロ入りの相談をもちかけたのが篠崎教室の篠崎瑞夫さんで、篠崎さんは「プロ入りはまだ早い、2、3年待ちなさい」と言ったものの、同時に昔からの刎頚の友である灘九段に村山少年の弟子入りの許可を得ていて、結果的に二重弟子のような形となっていたのだった。
誰が悪いというわけではなく、わずかなボタンの掛け違いから生じたこと。『聖の青春』を読むと、灘九段がもう少し柔軟に対応してくれれば、と思えるところだが、昔ながらの勝負師気質から、このような部分は譲れなかったのだろう。
——–
灘九段は、村山少年の奨励会入会にクレームをつけた1年半後に亡くなる。享年57歳だった。
灘九段は、亡くなる数年前から奥様の健康のことで心を痛めていた。
将棋世界1984年7月号、荒法師・灘蓮照九段逝く「灘先生の思い出」より。この文章は、灘蓮照九段と親しかった萱園洋明さん(奈良県白鳳支部幹事長)に星田啓三七段(当時)が取材したもの。
灘先生に初めてお会いしてからだと30余年になる。場所は、松田(辰)八段宅であった。僧籍に入られる前で名前は照一であった。松田先生の奥さんは「照ちゃん」と愛称で呼ばれていた様に、記憶している。灘先生が松田先生を訪ねて来られるたびに、よく指していただいたものだった。当時のことは将棋を指していただいたことと、松浦先生や木津にお住いであった南口先生などと一緒に夜遅くまで真劔を指されていたことがなつかしく思い出される。
昭和29年1月松田先生の葬儀の後、岡崎先生、灘先生、私の3人で写真を撮ってもらったのを最後に私は将棋を捨て、諸先生方とのおつきあいも終わってしまった。
灘先生との再会は52年春であった。記念写真持参の再会である。そのせいか23年の空白は全く感じさせなかった。
それからは、又将棋にのめり込みの状態が今日まで続き、これからも続くだろう。将棋の世界へもどったために、灘先生を通じて、失っていた人間関係が回復し、以前にも増して親しくしていただいている方が多数いる。星田先生もその中のお一人といえる。灘先生は非常に知人を大切にされる方であり、縁を大切にされた方であった。
公の将棋では”早指しの荒法師”との異名を持ち棋界最高位の九段まで昇った希有の棋士。豪放磊落に見えて、神経は細く、隅々まで気配りの届く人であった。
将棋会を開いても、挨拶の時にはかならず、世話役の苦労をねぎらい、感謝しなければならないと教えられていた。
将棋の普及面でも力を入れられていた。無報酬に近いお礼でも支部のためなら、と忙しい時間をさいて出席していただいたものだ。
昨年の西支部大会のおりには広島の篠崎氏、弟弟子にあたる清瀬君、先生、私の家族と一緒に昔話に花をさかせ、一晩共にしたことなど思い出はつきない。新しい友人はもう作りたくない。それより、古い友人とのつき合いを大切にしたいと常々おっしゃっていたことも思い出す。
酒、女、将棋に関しては、あまりに有名で皆が知るところだが、愛妻家であったことはあまり知られていない。
3年前奥さんが手術で入院された時、涙声で「刑務所に入ってもいい、生きていて欲しい。どんな状態であっても寝たままでも生きていて欲しい」と言っておられた。「この年で死ぬなんてあまりにもかわいそうだ」とも。夫婦ゲンカは多かった。そのケンカが愛情表現であった様に思える。
奥さんの手術が成功し、退院されてもしばらくは無理の出来ない状態が続いた。その間不自由にもかかわらず愚痴一つ言わずに辛抱されていた。良くなられてからは一緒に海外旅行にも行かれ、奥さんに尽くされていた。昨年夏には、奥さんが健康のためとプールに泳ぎに行かれるときも一緒に行かれ、オシ鳥夫婦振りを発揮しておられたが、この頃奥さんに病気の再発の兆しが現れてくる。腹痛であった。
奥さんの症状は秋頃からだんだんひどくなっていく。検査にはたびたび行っておられたが発見できず辛抱できず再入院されたのは11月1日であった。手遅れであった。切ることも出来ず開腹しただけで縫合された。灘先生の落胆は大変であった。気をまぎらわすために酒。酒を飲めば涙。将棋などはとても指せる状態ではなかった。入院中の奥さんへの看病ぶりは頭がさがる思いだった。死の宣告を聞いておられた先生の胸中はどんなであったろうか。口をついて出てくる言葉は「死ぬには若すぎる」だった。「いじらしくてほほずりでもしてやりたい気になる」とさえ言っておられた。
それからしばらくして、死を待つばかりの退院がやってくる。それでも人前では動揺は見せず常に平静をよそおっておられた。
私には「俺のコンピューターはこわれてしまった。将棋は指せん。終わりだ。2、3年は元にもどらんだろう」とも言っておられた。奥さんの死を待つばかりの退院が先生に与えたダメージは想像以上だった様だ。最愛の人をなくすのを目前にして当然であったろう。
知人の京大婦人科医師の判断により京大病院へ3度目の入院が決まる。先生の喜び様は「”地獄に仏”とはこのことや」の言葉に全てが表れている。「人事を尽くして天命を待つ」の心境であったと思われる。
入院前日、二度と生きて帰れぬと覚悟された奥さんは、遺言をテープに残そうとふき込んでおられた。それを灘先生は床の中で涙をこらえて知らぬふりをしておられたそうだ。
テープにふき込むことは、うまくいかなかった様だ。後日、先生からこの時のメモ原稿を読ましていただいた。先生の事を心配されて、いろいろと注意というか願いがメモ用紙に連綿と書きつらねられていた。ふびんだ、あわれだと何度も何度もくり返し、泣いておられた。
奥さんは一進一退を続けておられる様には見えていたが、死に一歩々々進んでおられたのだった。
ところが灘先生の体も知らぬうちに、糖尿病を引き金にして、悪い方へ歩を進めていたのであった。はた目には奥さんの看病疲れに見えていたが、脳梗塞の病状は進んでいたのだった。京大病院の医師のすすめで精密検査が始められて、結論間近だった。
看病疲れで体の方は限界まできていたのであろう。「俺は72までは絶対大丈夫なんだ」とよく言っておられたのに……。
「人間いずれ一度は死ぬんだ。死ぬのをこわがる者がいるが、寝て目がさめなかったら死んでいるんだ。毎日死んでいるのと同じなんだからこわがることなんかない」と折あるごとに言っておられた先生が全くねむるがごとく亡くなられてしまった。本音だけで生きてこられた先生は、「現役では死にたくない。隠居生活をしばらくして、人並みの人生を送るんだ」と言っておられた。その先生が現役で亡くなられたことだけが心残りであったろうと思えてならない。
「おまえは将棋は強ならん。酒の修業をしとればいいんだ」といわれ、人生勉強をさしていただいたのだ。かけがいのない師であった。もう少し長生きをして欲しかった。おしい人を将棋界はなくしたと思えてならない。
——–
将棋世界同じ号の神崎健二二段(当時)の「灘先生を偲んで」より。
3月20日、春分の日の朝のことである。
福島区の私のアパートに珍しく電話がかかってきた。
「灘先生が倒れて救急車で病院に運ばれたらしい。すぐに京都に行ってください」
私は、師匠の甥弟子にあたる伊達先生といっしょに宇治市の病院へと急いだ。師匠は集中治療室で意識不明のまま眠っていた。脳の血管が閉塞したらしい。その場所は血管が集中していて、メスを入れるのは極めて難しいらしい。場所が場所だけに、詳しいことは翌日の血管撮影とかいう検査が終わるまで判らないようだ。
その時は、このような最悪の事態が起ころうとは、夢にも思わなかった。師匠のことだから、突然目が覚めて「俺はなんでこんなとこにいてるんや。俺は帰るぞ」ということになるだろうと楽観していた。
翌21日の夜、師匠の甥の優一さんに電話をかけて、検査の結果を聞いてみた。脳底動脈等が閉塞してしまって、小脳などの働きが停止しているらしい。脳のことはよく知らないが、師匠はもう二度と意識が戻らないというのが結論だそうだ。延髄の一部に血液がわずかに通っているので、その部分が呼吸の働きをつかさどって生命を引き延ばしているのだそうだ。
事実上死を宣告されたも同様である。
私の20年間の人生において最大のショックだった。涙が止まらず一晩中泣いていた。
奨励会に7年もいるのに、いまだに二段でもたもたしている自分が情なかった。
師匠は子供さんがいなくて、棋士の門下生も一人もいない。そのせいか私のようなものでもよく面倒を見てもらった。それなのに師匠の元気なうちに四段になれずにいるとは、灘先生に申し訳ない気持ちで一杯だった。
後日師匠の友人に聞いた話だが、今年の1月に私がまぐれで若駒戦に優勝した時に、師匠は大阪新聞を切り抜いて、その友人に、「神崎は勝っとるが、この手が甘い。俺やったらこう指すけどなぁ」と言って喜んでくれたそうだ。本人の前では「おめでとう」の一言も言ってはくれなかったが、実際はそうでもなかったらしい。
しかし、若駒戦が最初で最後の恩返しになろうとは……。
3月26日、奥さんの節子さんが亡くなられた。
癌で以前から助からないと言われていた。師匠も、毎日のように奥さんの入院する病院に通っていたのだが、私に「家内のことが心配で3日間、めしがのどを通らん。俺が代わってやれるものならなんぼでも代わってやりたい」と、師匠にしては珍しく寂しそうな顔で、漏らしたことがあった。
結局、奥さんが亡くなられた時は意識不明のままで、悲しむことさえできなかったので、かえって良かったのかもしれない。
3月29、30の両日は、師匠がその一門4人を連れて高野山に宿泊して、のんびりしようと計画していたのだが、師匠は病院のベッドで昏睡したままだった。
主治医には4月上旬までだろうと言われていたのだが、師匠は下旬まで粘った。内臓が丈夫で、医者もびっくりしていたようだ。
愛妻家の師匠は自分の死ぬ日を、節子夫人と同じの26日に決め、丁度1ヵ月後に逝ってしまった。
その4月26日、奇しくも私は、30年以上も前に灘夫妻が知り合ったという大阪の関目で、研究会に参加していた。午後5時頃連盟から悲しい知らせを受けた。まわりの方は「気を落とさないように」と心配してくれたが、なぜか涙は出なかった。
京都の伏見区の自宅で見た師匠の死に顔は笑っているかのように見えた。
「将棋の歴史数百年の中で、対振り飛車に銀を7六に持ってきて戦ったのは俺が初めてや。仏教の南無阿弥陀仏の南無(ナム=7六)と相通ずる所があって宗教界から授かった戦法や」という話を聞かされたこともあった。この玉頭位取り戦法と、両桂の下手殺しの3二玉型、それに町の道場の初段が10数級にされてしまう京都の道場(継続中)、これらが師匠の自慢のタネだった。
私は昔のことは判りませんが、デキの悪い弟子を除けば、言いたいことをめいっぱい言い、飲みたいだけ酒を飲み、好きなだけ旅行をして、悔いのない人生を師匠は送ったことと思っています。
最後になりましたが、師匠の告別式に駆けつけて下さったみなさん、生前お世話になったみなさんに厚く御礼申し上げます。
灘蓮照先生と節子夫人の御冥福をお祈りします。
5月8日 記
——–
灘蓮照九段夫妻の夫婦愛に涙が出る。
神崎健二二段(当時)が「奥さんが亡くなられた時は意識不明のままで、悲しむことさえできなかったので、かえって良かったのかもしれない」、「愛妻家の師匠は自分の死ぬ日を、節子夫人と同じの26日に決め、丁度1ヵ月後に逝ってしまった」と書いているように、この二つのことが悲しい出来事の中での救いに思える。
灘九段は、駒落ち将棋と早指しの達人。順位戦A級在籍通算17期、棋戦優勝6回。対振り飛車の玉頭位取り戦法、矢倉4六銀・3七桂戦法の創始者だった。