その後の島研

将棋世界2001年1月号、鈴木大介六段(当時)の「鈴木大介の振り飛車日記」より。

 島八段との全日本プロトーナメント戦。高橋九段に続き、A級の島八段と当たるなんて、厳しい反面うれしい対局である。

 島八段には、三段の頃から公私ともにお世話になった。特に四段になり、一人暮らしを経堂で出来るようになったのも、両親を説得する時、島・森下両先生が経堂に住んでおり、日頃からお世話になっていたのが大きかった。

 ちなみに僕が初めて借りたマンションは森下先生と同じマンションで(とは言っても部屋数も家賃も僕の1階と森下先生の2階では3倍近く違っていたが)島宅にも近かったため島先生にはよく、「朝、窓を開けると2階からはよく駒の音が”ピシッ”と響いてくるけど1階からは聞こえたことがないなァ」とか、「森下さんとは本屋や喫茶店でよく会うけど鈴木君とはここ(パチ屋)でよく会うねェ」等とよくからかわれた。

 余談だが、朝、開店前のパチ屋で並んでいると森下先生が通りかかる時があり、いつもの感じで、

「これは、これは鈴木君。毎朝おつとめご苦労様です。私もこれから仕事に行かなくてはならないのですが、鈴木君の健闘をお祈りいたします。それでは失礼」

 これを聞くとこれから始まる我が生活を懸けた戦いがむなしく感じて必ずといっていい程負けていた気がするのだが…。

 島研という恐ろしい研究会もあった。

 とは言ってもあの有名な羽生、佐藤、森内の島研ではない。何故恐ろしいかと言うとまずは8人で午前中に集まり将棋を一局。昼飯を出前で取り昼食。

 ここまでは普通だ。この時点で何故か盤、駒が片付いてしまっているのがミソなのだがそこから島八段がおもむろにトランプの赤、黒を人数分持って来て、

「さあこれから将棋を続けるかどうか決めましょう」と提案して来るのだ。

 すでに目は将棋を指していた時よりも輝いている…。

 ちなみにこの決め方は、研究会メンバーに飯塚五段、高田五段といった必ず将棋に入れる人がいても、将棋続行に決まった事は一度もない…。

 かくして一生懸命午前中に将棋で勝ったわずかなお金は数分単位で右へ左へピンゾロを出した人のサイフへと消えていくのだった。

 こんだけ話を横へ横へとやって来たのだから、対局結果はお分かりでしょう…。

(中略)

 本譜はここから目を覆いたくなるような手を連発。逆にこういった悪くした直後にポッキリいってしまうのが今の自分のとても弱いところだ。

  この後50手程続いて、双方1分将棋になった局面で、島八段に、信じられない程の大ポカが出て最後は詰むか詰まないかの局面になったのだが一枚どうしても足りなかった…。

 こういった競り合いの将棋で負けるといかにも実力の違いを見せつけられたようでショックが残りつらく厳しい。

 しかしそれより負けた将棋を負けた日の夜中に締め切りに追われて書くのはもっと厳しかったです…

——–

森下卓八段(当時)の朝の挨拶、「これは、これは鈴木君。毎朝おつとめご苦労様です。私もこれから仕事に行かなくてはならないのですが、鈴木君の健闘をお祈りいたします。それでは失礼」の折り目正しい様子が、目に浮かぶようだ。

——–

「これは、これは鈴木君。おはようございます。鈴木君の健闘をお祈りいたします」

なら、鈴木大介四段(当時)もむなしくならずにパチスロに集中できたかもしれないが、この挨拶では森下卓九段ではない。

やはり、「毎朝おつとめご苦労様です」と入るのが森下九段らしいところであり、これは削ることができないと思う。

——–

5年ほど前になるが、私がペンネームで書いた観戦記が将棋ペンクラブ大賞の最終選考に残ったことがある。

この時、優秀賞になるかならないかのところまで討議されたが、惜しくも賞をとることはできなかった。

その頃は、会報に掲載される将棋ペンクラブ大賞最終選考会の模様の書き起こしは私が担当していたのだが、2週間ほど書き起こしに着手する気持ちが起きなかった。

最終選考の際にもっと低い点数だったなら、気持ちの切り替えも早かっただろうが、なまじ優秀賞をもう一作と競っていたので、結構引きずっていた。

なので、鈴木大介六段(当時)の「しかしそれより負けた将棋を負けた日の夜中に締め切りに追われて書くのはもっと厳しかったです」は、痛いほど気持ちがわかる。