将棋世界1981年11月号、有吉道夫九段の「振飛車対抗法」より。
中飛車とは字のごとく、飛車を中央、5筋に振る指し方である。一見攻撃型の戦法のようだが、実はそうではなく、本質は受け身の戦法なのだ。中央は金銀の守りの駒が集結しやすく、突破しにくく、攻めが難しいところ。だから飛車を中央に振るのは受け身の感覚かもしれない。
これはプロの立場からみた思いである。
古典定跡の本を調べてみたが、精選をはじめ歩式、絹篩、あるいは独案内、などどれをみても中飛車戦法はみかけない。
わずかに昭和3年発刊の木村義雄八段(当時)著の将棋大観に、初心者用の定跡として取り上げているに過ぎない。(前述の著書の年代に比較すれば最近といわざるを得ない)
将棋大観の冒頭に、後手が5二飛と回る中飛車の作戦は、専門棋士間には、香落戦以外ほとんど指すことがないといっても過言ではない、と当時木村八段は書いておられる。
「下手の中飛車、上手が困る」という言葉が残っているが、プロ間では振飛車戦法の中で中飛車は軽くみられてきたようだ。それが見直されてきたのは、松田茂役八段の功績に負うところが大きいと思う。氏は昭和25年度順位戦でツノ銀中飛車の連採でもって11勝1敗の快記録で、七段からA級八段に昇段され同時に中飛車の評価も上がった。
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将棋世界1980年12月号、大内延介八段(当時)と天狗太郎さんの「振り飛車のルーツ」より。
ツノ銀中飛車は、松田茂役八段が新工夫を凝らして採用し、松田旋風を巻き起こした新戦法である。
古典将棋としては弘化三年(1846年)9月7日、渡瀬昇治と勝田仙吉(のちの九代大橋分家宗与)の対戦譜が写本『将棋雑載』に見えるが、松田流は新感覚を盛った新しいツノ銀中飛車である。
松田先生にうかがうと、師の金子金五郎九段が発行していた『将棋評論』に坂田三吉翁の振り飛車が載せてあり、それをヒントを得て現代戦法に創り直したという。
古典のツノ銀中飛車は後手が用いる戦法であり、渡瀬・勝田戦の序盤は参考1図のように組み上げて、6五歩と後手が仕掛ける。
現代のツノ銀中飛車は、形は似ても考え方はまったく異なる。
(以下略)
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言われてみれば、江戸時代のお城将棋で、向かい飛車もあれば四間飛車もあれば三間飛車もあったが、中飛車の対局は見たことがない。
中飛車がプロで用いられる戦法になったのは、故・松田茂役九段の功績があまりにも大きい。
もし、松田九段が中飛車にしてから玉を右側に囲わず、左側に囲っていたとしたら、中飛車は振飛車の分類にはならずに右四間と同様の居飛車として位置づけられていたことだろう。
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Wikipediaによると「中飛車は玉の頭に尻を乗せ」という古川柳があったということで、中飛車は江戸時代あるいはもっと前からアマチュアの間では人気のあった戦法だったのだろう。
定跡書には出ていない指し方なので、飛車を5筋に振ってそれ以外は全てが自己流の世界。
松平家忠の『家忠日記』(松平家所蔵の天正15年(1587年)2月下旬の条)の余白に書き込まれた局面図も後手が中飛車。アマチュア同士の戦いだ。
→昨日の『真田丸』の頃に指された将棋(最古の局面図:天正駒組図)
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羽生善治三冠が将棋を覚えたての頃、よく指していたのが1図の先手側だったという。
羽生三冠は「この型はルールを覚えて間もない人がよく指しているのを見かけるが、何故、多くの人がこの型を指すのか、一度、心理学者の人に調べてほしいものだ」と書いている。
少なくとも江戸時代から続いていたこの流れ、本当に心理学者に調べてほしいと思う。