将棋世界1982年2月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。
先の小説「名人」に出てくる大竹七段はいまの大竹英雄十段でなく、その師にあたる故・木谷九段である。その木谷に大山や丸田がからむ昔話を得意げに語るのは、ベテラン観戦記者の日色恵氏(元東京新聞記者)だ。
昭和31年、当時の東京新聞社は将棋で「東京新聞杯」、囲碁で「囲碁選手権戦」を主催していた。この年に決勝に勝ち上がってきたのは、将棋で大山と丸田、囲碁は木谷と坂田栄男九段だった。囲碁好きの大山の発案で前代未聞の企画が実現するのだ。
大山が担当記者の日色氏に「囲碁といっしょに三番勝負はできないものか?」と言い出したのがきっかけだった。むろん丸田にも異存がない。すぐに坂田にこの話をしてみると「木谷さんも将棋好きだから大丈夫。ぜひやりましょう」と大乗り気。
対局場は、おなじみの「羽澤ガーデン」にして、この珍妙なダブルタイトル戦がはじまった。立会人の選択にも気をつかい、将棋は加藤治郎名誉九段、囲碁は村島誼紀八段が選ばれた。ともに相手方の大ファンである。
午前9時、同時開始。さすがに対局室だけは別々だ。一番苦労したのは、「両方の対局開始風景を撮らなくちゃあならないキャメラマンだった」というのはうなずける。控え室には将棋盤と碁盤が並び、立会人以外に将棋の加藤博二八段、山川次彦七段ら、囲碁の藤沢明斎九段、加納嘉徳九段らが互いに相手方の”盤”に熱っぽい視線を送っていたという。だが、それだけでは済まない。
昼過ぎには、大山、坂田が相手の長考時間をもて余し、控え室に現れるばかりか、ついには”次の手順”が待ち切れず、互いの対局室に出入りし、座り込むようにもなった。ともに熱狂的なファン気質丸出しなのだ。
そして深夜に終局。日色氏は苦笑する。
「運悪く、ほとんど同時に終わっちまったんだ。雑報を送らねばならない社会部の記者とキャメラマンが右往左往して、あとで社会部長から”もうかんべんしてくれ”と泣きを入れられたよ。以来、どこの社でもこんな企画はしなかったよ」
そうだろう、もし、当日の大事件でも起これば、こんな記事を載せるスペースはなくなってしまうのだから―。「でも対局場の設営費は、両方いっしょだから1万円ほど浮いたよ」と日色氏は予算の節減に自慢顔。―カメラをキャメラと呼ぶ古き良き時代の逸話だ。
(以下略)
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東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦は1956年度から1966年度まで行われていた棋戦。
囲碁も、高松宮賞、東京新聞社杯争奪囲碁選手権戦が同じ期間行われていた。
昭和31年と書かれているが、囲碁選手権戦三番勝負で坂田栄男九段 -木谷實九段戦が行われ、将棋選手権戦で丸田祐三八段(当時)が優勝したのは昭和33年(昭和32年度)のこと。
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「囲碁といっしょに三番勝負はできないものか?」。
一見面白そうな企画だが、
- 書かれている通り、主催社は多少費用を削減することができたとしても、運営が大変。
- 将棋も囲碁も好きな読者から見れば、クリスマスと正月が同じ日にやってくるようなもので、二度楽しめたものが一度になってしまう。
- 将棋は好きだけれども囲碁には興味がない、あるいは囲碁は好きだけれども将棋には興味がない読者から見れば、「いつもの通りにやってほしい」
という感じで、苦労の割には効果が出なさそうに思える。
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日色恵さんは女優の日色ともゑさんのお父さん。
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クリスマスと正月が同じ日にやってくるようなもの、と書いたが、私はこの1ヵ月で、「ミッション・インポッシブル」シリーズ全5作と「007」シリーズ全24作を観ている。
合計して29作の映画、どれもが素晴らしく、面白かったわけだが、本来であれば1本の映画を観た後の余韻に浸る時間が必要なところ、次から次へと観てしまった。
私の性格だから仕方がないが、1年から2年楽しめることを1ヵ月に集中させてしまったようで、少し勿体無いような気持ちにもなっている。
というか、私の頭の中は「ミッション・インポッシブル」と「007」の世界観となっており、北朝鮮などの悩ましい問題も、ジェームズ・ボンドやイーサン・ハントが解決してくれればいいのにな、と思ってしまったりしている。