将棋世界1986年6月号、野口益雄さんの「気軽にやろう詰将棋」より。
〔登場人物〕
駒形 詰将棋評論家
二宮 二段、将棋世界の熱心な読者
五味 5級、棋誌をときどき読む
名取 元アマ名人、将棋世界を愛読駒形「マンガ家の水木しげるって名前、知ってますか」
二宮「ゲゲゲの鬼太郎でしょ」
駒形「その水木さんの自伝”ねぼけ人生 (ちくま文庫)”を読みましたら、27、8歳ごろの田辺一鶴さんがアシスタントつまりマンガの助手をしていたそうです」
二宮「将棋世界で一鶴五番勝負という催しを、10年以上前に、やっていましたね」
駒形「一鶴さんは将棋の大ファンですから私も数年前に訪問したことがあります。加藤恵三七段や小野修一五段も一緒だったかな。一鶴さんは講談師兼古本屋で、小田急デパートの古書展などには、いつも例のアカシヤ書店と並んで出品しています」
五味「アカシヤ書店?」
駒形「将棋専門の書店ですよ。古書業界でも将棋のアカシヤとして知られています」
五味「駒形さんの話は横へ横へと拡がっていくますね。何を話そうとしているんですか」
駒形「水木しげるさんが一冊のマンガを3万円の稿料で描いていた昭和32年頃、自作が武取いさむという名前で発行されていた。出版社に問い合わすと、勝手に名前を変えたという答えで、憤慨したそうです」
二宮「出版社が勝手にそんなことを?」
駒形「それが読んでいて思い出したんですが、私も同じ体験があるんです。昭和40年ごろ、森脇太郎氏(元奨励会員)が出版プロダクションを経営して、将棋界の裏面では森脇文庫といって有名だったんです」
五味「裏面というと、悪いことをしていたんですか」
駒形「いや悪くはないんですが、つまり、その……」
五味「なんだか言葉を濁していますな」
駒形「棋士も10人近く森脇プロダクションに関係していました。私も名取さんも、ちょっと関係していたんです」
名取「いまは懐かしい気分もしますよ」
駒形「森脇プロダクションに詰将棋の原稿を一冊分渡したことがありますが、本になったのを見ると益田正勝という名前です。抗議する気はありませんでした。オカネが目的で作った原稿でしたから」
名取「あれは10万円ぐらいでしたか」
駒形「覚えていませんが、そんなものでしょう。あ、それから、その本は私が校正しなかったものですから誤植だらけ。駒が逆さまになっていたり”木曽の桟道”というのが木曽の軌道となっていて、情けない思いでしたよ」
二宮「なぜ水木しげるが武取いさむ、駒形さんが益田正勝と変えられてしまうんですかねえ」
駒形「想像ですが、発行の数年後になってから著者から著作権を主張されるのを、出版社が警戒したのかと思います。水木さんの場合も私も著作権ごと作品を売ってしまったのですが、その契約書を数年後に出版社が紛失してもかまわぬように、著者名を替えたのでしょう。あの頃は出版界の裏街道を私たちはウロウロしていたんですねえ」
名取「森脇氏は3、4年間に数十冊の棋書を作り、姿を消したけれど、今どこに行ってしまったかなあ」
(以下略)
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野口益雄さんは詰将棋作家で、将棋世界編集長を務めたこともあった。
文中に登場する駒形氏は野口さん自身を想定していると見て良い。
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”益田正勝”の著者名で検索すると、『新しい詰将棋撰集』(村田松栄館)がその本であることがわかる。
村田松栄館は、書籍販売取次業が主体で自らの出版に乗り出すことは少なかったと伝えられている。
森脇プロダクションが様々な出版社にアプローチして、そのうちの一冊が村田松栄館から出版されたという形。
著者名を変えることも、森脇プロダクションが了承したから、ということになるのだろう。
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森脇プロダクションは出版プロダクションなので、出版社は固定されず、どの本を作ったのかは今となってはわからない。
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ただ、私が中学生の頃に買った『将棋実力テスト問題集 二十級から初段まで』(永岡書店)という本の著者が「五段 伊達二郎」で、実在しないプロ棋士だった。
森脇プロダクションによるものと見て間違いないと思う。
とはいえ、この本は当時は少なかった次の一手問題集で、とても勉強になった。私の実力向上に役立った本の一冊と断言できる。
出版界の裏街道と表現はされているが、森脇プロダクションが特に悪いことをやっていたわけでもなく、将棋ファンのために棋書をたくさん作ってくれたと解釈すべきだろう。
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森脇太郎さんは松田茂役九段門下。
1965年後期に30歳、三段で奨励会を退会している。
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水木しげるさんが”武取いさむ”という名前に変えられて出版されたのは貸本漫画と思われる。
1960年代までは貸本屋が街中にあり、貸本屋でしか見ることのできない漫画単行本というものがあった。
私が子供の頃も近所に貸本屋があり、愛読誌だった少年サンデーはいつも貸本屋で借りていた。
たまに貸本漫画を立ち読みすると、とてもついて行けない世界で、貸本漫画は一度も借りたことはなかった。
今でもトラウマになっているのは、野武士のような男が相手の武士を斬り殺して、その後、その男が殺した相手の脳を歩きながら食べているという衝撃的なシーン。
貸本漫画には独特な世界があったのだと思う。