藤井システム誕生前夜の一局

将棋世界2004年4月号、アサヒスーパードライの広告「新手が生まれる時 藤井猛九段」より。

藤井システム誕生前夜の一局

 居飛車穴熊の出現によって、振り飛車党は壊滅的な打撃を受けた。かつて玉の堅さを生かして勝った振り飛車が今度は玉の堅さで負かされる。結果的に振り飛車党は激減。そんな振り飛車苦難の時代に敢然と立ち上がった棋士が藤井である。藤井が考えたのは振り飛車からの急戦だ。

 「悩んでいた」と藤井。システムの構想自体は四、五段時代からあったという。「穴熊が完成する直前に攻める。だが、現実のタイミングが難しい」

 平成7年。藤井は関西の天才、村山聖との初対局を迎える。「相手はうわさの天才。ぶつけるならここだと思った」

 図の△8五桂。後手は△4三銀と△9四歩を省略して単騎の桂跳ねを決行した。「ぎりぎりまで無駄を省いた駒組み。これでダメなら後手からの急戦はないと思った」と藤井。結果は無念の敗北。だが、この敗戦が藤井にさらなる発想の飛躍をもたらす。「いっそ玉の囲いも省略して攻めたらどうか」

 有名な藤井システム。居玉急戦の1号局が出現するのはこの11日後のことである。

平成7年12月11日第37期王位戦予選。△8五桂以下は▲9五角△8四歩▲8六歩と進み、117手で先手勝ち。

—————

この広告を見ると、居玉の藤井システムが誕生するのは、藤井システムが世に出る直前であったことがわかる。

村山聖八段(当時)がベータ版の藤井システムを粉砕したからこそ、より良い藤井システムが出来上がったと考えてもよいだろう。

やはり、新戦法が生まれるまでには、紆余曲折、あやゆる苦労や苦悩を経ていることが強く理解できる。

—————

藤井システム居玉急戦の1号局は、12月22日に行われたB級2組順位戦、対井上慶太六段(当時)戦。

藤井システムの1号局→藤井猛四段(当時)「いや、少数派でありたいですね。いつもいつも相矢倉だ、では将棋ファンはうんざりでしょう」