深浦康市八段(当時)「C級の将棋は若くて勢いがある。B級は殺し屋的存在が多い。これがA級になると、バランスが取れているんです」

深浦康市九段が11月3日の王将戦挑戦者決定リーグ戦、対斎藤慎太郎七段戦に勝ち、19人目となる公式戦通算800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成した。

深浦康市九段、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成(日本将棋連盟)

公式戦通算800勝を達成した棋士は次の通り。( )内は棋士になってから800勝を達成するまでの年数。

大山康晴十五世名人 1972年(32年)
加藤一二三九段 1982年(28年)
中原誠十六世名人 1986年(21年)
二上達也九段 1987年(37年)
有吉道夫九段 1987年(32年)
内藤國雄九段 1987年(29年)
米長邦雄永世棋聖 1992年(29年)
谷川浩司九段 1997年(21年)
桐山清澄九段 2000年(34年)
大内延介九段 2000年(37年)
羽生善治棋聖 2003年(18年)
森雞二九段 2009年(41年)
佐藤康光九段 2009年(22年)
森下卓九段 2010年(27年)
森内俊之九段 2011年(24年)
丸山忠久九段 2014年(24年)
高橋道雄九段 2014年(34年)
郷田真隆九段 2015年(25年)
深浦康市九段 2017年(26年)

今日は深浦康市九段に迫る。

将棋世界2004年4月号、「棋士たちの真情 深浦康市朝日オープン選手権者」より。聞き手・構成は浅川浩さん。

 ここまでの道のりですか?とても長かったです。一番惜しまれるのはC級2組に6年もいたことです。後悔はしていませんが、もっとやり方はあったと思っています。

 ぼくはスロースターターなんです。そもそも奨励会でもかなり出遅れていて、6級に1年もいました。昭和59年の入会で、1年後輩に屋敷さんがいましたが、屋敷さんは光のように速く抜けていった。3年未満で四段になっていますよね。

 ようやく三段になったときも、いきなり「半年の空白」がありまして…。ぼくが三段に上がったのは10月の第1週でしたが、次にリーグにエントリーできるのが9月末までなんです。まだ始まってもいない三段リーグを半年間黙って見てるしかなかった。

 三段リーグの成績は、プロになってからの成績と似ているかもしれません。たとえば全18局、13勝が昇段ラインとしましょう。するとぼくは、必ず10勝はできるんですよ。ところがあと3勝がなかなかできない。結局12勝6敗で上がれない。そんな感じです。だから、全体の勝率を見ると、これは群を抜いていいんです。でも、結果としては何も残っていない。ぼくの人生はそういう人生なのかもしれませんね。

 安定はしているけど、なかなか抜け出せない。それがぼくの悩みでした。順位戦でもC級で1回、B級で1回、2回も頭ハネを食らっていますし…。

 阪神大震災が起こった日は、ぼくが順位戦で手痛い1敗を喫した日でした。ぼくは東京で対局、大阪の対局は当然延期です。そういう状況で、菊地常夫先生に軽く飛ばされ、自分で転んでチャンスを逃してしまった。同じように痛い星を落とした先崎さん、当時「週刊将棋」にいた観戦記者の加藤久康さんと中野のホストクラブに行って、朝まで吠えてました。吉野家で朝定食を食べて、先崎さんの家で、1日たった神戸の焼け跡をテレビでぼうっと見ていました。あの1日はなんだったんだろう、と思いますね。

 佐世保から東京に出てきたのは中学1年の4月です。3年間という条件付きで、親戚の家にお世話になりました。

 ところが入門してすぐ、5月に花村師匠が亡くなりまして…。短い間でしたけど、花村師匠にはずいぶんかわいがってもらいました。怖い印象はまったくありません。とにかくいつもニコニコしていましたね。「音楽でいい成績をとりました」と師匠に報告すると「そうか。将棋にはリズム感が大事だからな」と、そんな感じです。きっと何を言っても誉めてもらえたんでしょうね(笑)。

 中学を出てからはひとり暮らし。高校には行きませんでした。得意だったのは数学と理科です。高校ではどんなことを勉強しているんだろうと興味があって、数学の教科書を買ってきて、ちょっと勉強したりしたこともあります。音楽も好きでした。音符を覚えたのがよかった。

 ひとり暮らしを始めてからの生活は、ビデオテープのように再現できます。朝7時には必ず起きる。朝ごはんを食べて、9時から12時まで将棋の勉強です。昼食後に昼寝をして、2時から午後の勉強を3~4時間。夕食後、夜8時から2~3時間勉強して寝る。記録でも取らない限り、この繰り返しです。

 遊びの誘惑ですか?いろいろ話を聞いていましたから、手を出したら終わりと思っていました。

 勉強内容は今と同じです。詰将棋、棋譜並べ、自分の研究です。特にだれかの将棋に憧れたということはありません。

 奨励会を抜けたときは、長い長いトンネルを抜けて、ようやく光が差し込んできたような感じでした。地元で応援してくれている方も大勢いましたから、もちろんホッとした気持ちもある。これまでの人生で一番うれしいことをひとつだけあげろと言われたら、やっぱり四段になったときです。奨励会時代が一番勉強したし、一番努力もした。一番苦労もしましたから。

 でも、プロになったときは、ものすごく危機感も感じていました。ぼくは19歳で四段になっていますから、常識的には悪くないペースのはずです。でも、目標にしていた丸山さんや屋敷さんはすでにバリバリに活躍していて、自分ではかなり遅いスタートと思っていたんです。いかにしてその遅れを取り戻すか、そういう危機感のほうが強かった。

 羽生世代との接点ができたのは、プロになってしばらくしてからです。当時は背中も見えませんでした。ぼくにとっては、郷田さんが遠くに見える、かろうじて丸山さんのシッポくらいを追いかけている、そんな感じです。

 そういうことはあるんですけど、島さんでしたか、四段になったら「青春の取り戻し行為」をしたい、というようなエッセイをお書きになっていましたけど、そんなこともボチボチやりまして…。

 そういう下積みが私の原点です。それがあって、プロ2年目で全日本プロで優勝することができたのだと思います。米長先生が相手であるということ、フルセットまで行って勝てたということ、この二つが大きかったと思います。すぐあとに米長名人が誕生していますから、これが自信につながらないわけはありません。

 ただ、冷静に見ると、やっぱり米長先生の将棋のほうが圧倒的に強いんです。これは「今から見れば」ではなく、当時からはっきり思っていたことです。だから、実力で優勝したとは思っていません。

 ぼくがダメなのは、この優勝を生かせなかったことです。そこでいったん緩んでしまう。活躍が「点」で終わってしまって、なかなか「線」にならないんです。ずっとくすぶっているような感じで、早く完全燃焼したい、という気持ちが強くありました。

 1年ほど前から、自分とひとまわりも違う若手たちと研究会をやるようになりました。若手たちと接すると、勉強量がダンチと痛感します。もちろん私のほうが少ないという意味です。若手は、持っている時間のすべてを将棋にぶつけています。彼らを見ると、31歳としては心が動かないわけがありませんよね。修行時代の真摯な気持ちを思い出します。

 若手の将棋は、最初は驚きの連続でした。「そんな手があるのか」とびっくりすることばかりでしたが、そのうち眼が慣れてきたのでしょうか、「なるほど、そういう考えもあるということなのか」と感じ方が変わってきました。

 C級の将棋は若くて勢いがある。

 B級は殺し屋的存在が多い。極端に受けが強かったり、ものすごい攻め将棋があったりします。B級は「強い個性」とぶつかる感じです。しかもその個性にいろんなタイプがあって、どれか苦手をつくったら決して上がれない。それがB級の難しさですね。

 これがA級になると、バランスが取れているんです。「強い個性」はもちろんあるんですが、それより先にバランスがある。

 もちろん名人挑戦は目指していきたいと思っています。私は夢を見ない人間ですが、それでも、「まずは残留を目指す」とは言いたくありません。

 そのためにも、一日も早く「A級の空気」に慣れたいですね。見て感じるのと肌で感じるのでは、おそらく違うと思うんです。羽生さんにしろ谷川さんにしろ、これまでも何度も対局してきましたが、きっと違うはずです。

 谷川さんは得がたい存在です。現代将棋の草分け的存在でもあり、人格者でもある。谷川将棋が花開いたのは私が奨励会に入る前ですから、第一線で活躍している時間がものすごく長い。ぼくがプロになって今年で13年目なんですが、これから先どれだけよい将棋が指せるかと考えたとき、谷川さんのすごさがわかります。谷川さんは「棋士の模範」かもしれません。

 羽生さんが最強の棋士であることは間違いないですが、最近は波が大きいですね。ますますとらえどころがなくなってきました。

 森内さんはとにかく充実しています。過去の実戦を踏襲しているイメージから脱却し、独自路線を突き進みつつあります。

 佐藤さんは、こと将棋に関しては、自分だけを信じるという信念を持っています。その意味で、加藤一二三先生と似ています。佐藤さんはA級では珍しいタイプなんですよ。

 こういう人たちと比べると、ぼくはダメですね。ぼくの将棋は甘いんですよ。いえいえ、ホントです。波もありますし…。とにかく、こんなにフワフワしていてはいけません。

 でも、前に進んでいるという実感はあります。少なくとも、自分の実力のピークは過去にはないです。これははっきり言えます。

(中略)

 プロとしては、ファンの方がお金払ってでも見たいと思うような将棋を指したいと思っています。「ゼニの取れる棋士」と言えばいいんでしょうか。深浦康市という棋士がいて、それを見て感動してくれるファンがいれば最高です。

 それができるプロが一流なのでしょうね。そうした一流を目指すなら、強い個性が必要です。最近、こう思うんですよ。「深浦君、その手はダメだよ」と言われると、修行時代は萎縮するものです。ところが、そういう手こそ、大事にしなければならないのではないか。それこそ個性かもしれない。おそらく、上に行けば行くほど、それが大事になってくる。自分なりの感性に頼るしかない、そういう領域が増えてくるような気がしています。

 これからの将棋は、研究と実戦の間で大きく揺れると思います。研究はしているんだけれど、実際に戦っている盤上では、まったく別のことをやっている。そんなふうに、研究と実戦が乖離するような現象が起こってくるでしょう。たとえば力戦が増える。相振り飛車が増える。こうした動きはすでに始まっていますよね。もちろん新戦法も出てきます。

 磁石のS極とN極のように、研究と実戦が正反対を向く。研究レベルでは定跡がどんどん進化するんだけれど、プレイヤーとしては定跡形ではなく力戦で戦う。研究していることが、そのままの形では実戦に出ない。

 たとえば、コンピュータで解析されたことは、プロの盤上には出ません。そう考えれば、わかりやすいかもしれません。

 いずれ人間に勝てるコンピュータは必ず出てきます。でも、それでプロ棋士の指す将棋がなくなるかといえば、そうはならないと思います。コンピュータが答を出すのは「絶対」のレベルのものですが、それができるのは将棋のごく一部分に限られるでしょうし、そもそも、コンピュータの指す将棋に、はたして感動できるのかどうか…。

(以下略)

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深浦康市九段というと「根性」という言葉が連想される。

「ガッツ」ではなく「根性」。

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「遊びの誘惑ですか?いろいろ話を聞いていましたから、手を出したら終わりと思っていました」

深浦九段の四段時代までは特にストイックだった。

ストイックだった深浦康市少年

兄弟子と食事に行っても、2次会へ行くのは「行ったら終わりですから」と絶対に断っていた深浦少年。

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通常、若い頃にここまでストイックだと、その後もその尾を引くものだが、現在の深浦九段は非常に温厚なバランス感覚に優れる紳士。

人生相談をしたら、とても有益なアドバイスをしてくれそうな頼りがいのある雰囲気を持っている。

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B級は殺し屋的存在が多い。

インパクトのある言葉だ。

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「『音楽でいい成績をとりました』と師匠に報告すると『そうか。将棋にはリズム感が大事だからな』と、そんな感じです。きっと何を言っても誉めてもらえたんでしょうね」

弟子に何があっても誉めてくれそうな花村元司九段。

ちびまる子ちゃんのおじいさんのさくら友蔵を彷彿とさせる。

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「島さんでしたか、四段になったら『青春の取り戻し行為』をしたい、というようなエッセイをお書きになっていましたけど、そんなこともボチボチやりまして…」の『青春の取り戻し行為』については、以下のブログ記事に詳しく載っている。

島朗九段のルーツ

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最後の、研究と実戦とコンピュータとの関わり。

13年前に見事に現在の姿に近いことを予測している。

非常に見事だ。