将棋ジャーナル1984年2月号、新春おもしろ座談会「善玉と悪玉が居てこそ面白い!!」より。
C 何かがあるって感じの人ですね。話違いますが今一番色っぽい男って、森安さんですね。
A また、気持ち悪いねえ。
F いや、少し前の内藤さんの方が色っぽかったよ。
E 内藤さんて欲のない人でね。
C 先日調べていてわかったことですが、おもしろいことに彼が今まで勝ち越してる相手ってのは、米長、森安、淡路さん等、仲いい友達ばっかりなんですよ。
A どういうこと?
C つまり、盤に向かって楽しい相手とはじっくり指して勝ち越すけど、楽しくない相手とは、盤の前に長く座っているのがイヤんなっちゃうんじゃないですか。
F でしょうね。特に大山さんと指す時なんか、早く終わらそう早く帰ろうって将棋ばっかりよ。
D そうそう。僕はわかるな、その気持ち。
C でも王位戦の舞台でね、若手のタカミチさん(高橋道雄五段)相手に簡単に負けてしまうようでは、ちょっと情けないなあ。
A ある種の恰好良さ、みたいなものが、内藤将棋の美しさであり、もろさなんだろうね。
C 将棋も、人生も?
E 自分の人生哲学がハッキリしてる人だから。それを壊して勝つよりは、負ける方が美しいと…。
C いやあ、対タカミチ戦の負けは、イメージ崩したんじゃない?
D それは違いますよ。
F ウン、これがね相手がヨネさんだったらイメージ崩したけどタカミチさんだったから、いいの。
C 本気出せば勝てるって余裕があるわけね。
A 将棋指しで頭の良さそうな人って、皆そういうところがあるね。他の奴は将棋しか知らないけど俺は違うんだって―
―高橋五段は、プロ間での評価はどうですか。C 悪く言いづらい人ですね。
A 口数が少ないだけに憎まれるってことはないんじゃない。
D しかし、周囲に対するサービス精神ゼロだから、もっと勝ちが込んで来ると何かと言われるタイプ。
C 加藤さんみたいにね。
F 若手の中では一人孤立してるみたい。他の人がのけ者にしてるんじゃないかな。
C A紙のI記者が興味深いことを言ってました。彼は対局終了直後は何もしゃべってくれないので困るけど、ただし2、3日後に取材すると、指し手の解説でも何でも非常に理路整然と分析して話してくれて、こんなにありがたい棋士はいないって。つまり終了直後ってのは、負けた時はくやしくてたまらないから話せないし、勝った時は相手への遠慮があって何もしゃべれないのだと、そういうことらしいですよ。
A 照れ屋で恥ずかしがり屋で、だからしゃべれないんだろうな。
E あの人の奨励会時代の、負けた時のくやしがり方ってのは凄かったです。持ってる本をいきなり床にたたきつけたりしたこともあったし。
C そういうタイプの方が伸びるんですかね。
―若手の名前が出てきた所で、他の若手のめぼしい人は。
A 東京では塚田、新人王の中村、田中寅あたり?
F タナトラはもう若手という感じじゃない。
E 塚田、中村は絶対伸びます。ものすごーく素直だから。
C 塚田君も?彼は服装のセンスが凝っているから、真部さんタイプかと思ったけど。
F 顔とか目つきが違います。
E 一番大きな長所は、塚田が酒を飲まないことです。
A それは強い。飲むと飲まないとじゃ選手寿命がえらく違う。
C 関西だと、南、脇ですか。
F 福崎文吾も入りますが。結婚したらひどくなっちゃったね。
D そのうち落ち着けば、元に戻るんじゃないかな。タイトル取ってもおかしくない人だ。
B プロ棋士ってのは、いずれにせよ女房がすごい重要なポイント占めるよ。あまり目立たない方がいい。
C 田中寅ちゃんは…。
B あれはタレントだもの。しかし寅ちゃんの将棋はいいね。アマチュア界に与えた影響力は抜群だよ。
C 居飛穴ブームを作った。
A そう。プロの将棋の価値は、かつて升田が築いた創造性と、もうひとつはアマ界に対する影響力だよね。
B 全くそう。自分だけ勝ってちゃ意味ないのよ。現実にさ、強くても、おもしろくも何ともない棋士もいる。
A 大山将棋はアマ将棋に貢献しているかなあ?
F というよりも、大山将棋を真似したら絶対負けますね。銀が逆へ動いたり金がソッポ行ったり。攻められると後からベタベタ埋めていくような……。
D 中原さんの将棋は我々真似しやすくて、その点で参考になる。
―話を若手の話に戻して南六段のことを。
F 僕は実は彼の将棋が一番好き。かつて振り飛車をやってた頃の、大山を弱くしたような棋風がね。
A その人も大人しいね。
E タカミチを、もう少しひねったような(笑い)化物です。最近棋風が変わってきたでしょ。
F 棋力自体が、強くなってきた。
C あと中村新人王ね。
E 指していてなんとなく負けちゃうって相手だろうネ。
F なんとなくフトコロが広い。中原タイプですね。
C 人柄も素直で謙虚で中原ソックリ。
D コバケン(小林健二)って名前は出ないの?
F ちょっと影が薄いなあ。四、五段の頃はスゴイ勢いだったけど。
D おもしろい将棋よ、やっぱり。
C おもしろいね。終盤が特におもしろい。
A 人間もひょうきんでしょ。
E 大昔の、コバケンが6級の時の話ですけど。完全負けで、詰まされてる途中でね……。
C あっ、歩を3回中合いしたとか。
E じゃなくて金です。金の連続中合いをして、次々同竜、同竜って取られて投了したの。(笑い)
C それがいい奥さんをもらって幸せになっちゃったので、暗さが消えちゃったのかな。(笑)
―十段戦は……中原、桐山、現在2-2ですが。
C 桐山さんってわからない人ですね。安定した強さの割に、目立たない。
B 一度、対アマ角落ちを観戦したことがある。関さんが相手の時ね。関さんはもう、気合いで負けたら勝負にならないってんで、はじめからアグラをかいて、烈迫の気合いで立ち向かった。そういうムードは、たいがいのプロは敏感に感じて多少は顔の表情が変わるもんでしょ。ところが桐山さんは、全く変わらない。平然として、何も気がつかない風に指し始めたよ。その時僕は、ああ桐山さんてのは大きい人間だなあと感じた。
A たとえば森雞二さんだったら、意識するね。カーッと来るか、あるいは笑ってしまうか、とにかく何かしら反応を示すよね。
B そうそう。桐山さんてのは、あくまで自然なんだ。まあ彼が将棋で天下取るかは別にしてさ、人物は、かなり上質な人間の部類に入るんじゃないかな。
C 大ポカが多い将棋。王手飛車とか駒をタダ素抜かれたなんてポカは、一番多い人でしょう。
D 実戦不足じゃないの。例えば子供時代に夢中で100円の真剣に熱中したって経験はないんじゃない。
F たしかにその感じを受けますね。
D 昔、彼が振り飛車やってた頃、たまに居飛車を指すとすごくいい将棋だったんで、僕は、桐山さんが居飛車に転向したらいい棋士になるんだがって、あちこちで言ってたんだけど。
F 現在ほとんど居飛車になってますね。じっさい強くなった。
A タイトルはどうなのかな。
D 中原を破って王座1回。それから朝日の全日本プロ優勝。
A えっ、そうなの?目立たないねえ。
F だいたい名人戦の挑戦者になったことも忘れてる人が多いです。
D あの将棋あまりにヒドかったから。
C 1局目のポカがひどい。
D いや全部ヒドかった。
A あの人の場合不思議なんだ。負けた将棋は我々よく覚えてるけど、勝ったやつは印象薄い。
C 華やかな所がひとつもない。
F しかし強かった頃の中原に2連勝したのはスゴイ。
D 翌年2連敗しました(笑い)
C つかみ所のない人ですねえ。
―この時点で十段戦の予想をしときましょうか。
B 僕は桐山がデカイ人物と思うんで、直感で桐山奪取!
C 僕も中原が完全に復調していない点で、桐山乗りを宣言しとこう。
B 名人戦挑戦者の予想はどうなったの?
C 大山で決まりという調子で話をして来たんですが。
E 森も一応、まだ1敗です。
F 万が一、森さんに決まったら、谷川ってのは恐ろしい強運と言わざるをえない(笑い)。
B 僕は米長って気もするなあ。2敗ぐらいじゃまだまだわかんないよ。誰がなるにしたって1敗のままなんてあり得ないでしょう。
C 僕は大山です。
B 倍層振ってくれるんだったら僕は絶対米長乗りだね。(笑い)
(つづく)
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将棋ジャーナル1984年3月号の湯川博士さんの編集後記には、
2月号新春座談会のメンバーを推理したハガキをいただいた。
A 湯川
B 今福
C 横田
D 新井田
E 下村
F 中野
というものだが、ずいぶん近いのでビックリ。よく読んで下さってありがとう。
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『将棋ジャーナル』という雑誌を振り返ってみたい。
近代将棋1993年7月号、湯川博士さんの「好きこそものの」より。
将棋ジャーナルがついに休刊になるがついては団鬼六オーナーを慰める会をやるから来ないか、とのお誘いを受け、某日、下北沢の小さな飲み屋に行った。森雞二九段、真部一男八段ほか編集者、ライター、カメラマン、新聞記者など親しい人が十数人集まって狭い店内は貸切状態となった。席上、団さんは「奮闘したが刀折れ矢尽きた」と語った。
思えばジャーナル誕生は1977年の夏だから16年生きてきたわけだ。こいつは誕生して半年目にしてすでに休刊説が出たかわいそうな奴だった。
雑誌が誕生してまもなくのころ、同じ町の奥山紅樹さんの家に遊びに行ったとき、この雑誌が部屋に置いてあった。なにげなくパラパラとめくって見て、今まで見たこともない雑誌であることに気づいた。将棋連盟になにやら楯突いて頑張っているようなのだ。私が熱心に見ていると奥山さんが、「持っていってけっこうですよ。なかなか元気があるでしょ、その雑誌…」
半分苦笑いのようだったと記憶している。ともかく家で隅から隅まで読んで、これなら私の原稿を載せてくれそうだと思った。そのころ、近代将棋や将棋天国に投稿して喜んでいた私はさっそくエッセイを投稿したら、すぐに載せてくれた。
これが縁で次号には6本(友人に頼んで)も原稿を入れた。編集長がいなくなって困っていることも知った。アマ連の役員会に出て休刊説も聞いた。ちょうど会社を辞めて暇があったので各地の取材など手伝っているうち、編集をやってくれないかという話になった。収入面では話にならなかったが、なにか男の血を騒がすようなものが雑誌のなかに感じられ、少考の末やることにした。それが第7号だから、ちょうど誕生1年目(隔月発行だった)に当たる。
入って驚いたのは想像以上に将棋連盟との関係が悪く、その分各地のアマ強豪や連盟に不満を持っている人には支持を受けていた。当時の記事に「読売日本一に出たものはアマ名人戦に出られないようにするという論調が連盟内で出ている」とあるからその間の事情は察しがつく。本邦初のアマ賞金大会だったのと、読売がアマ連(日本アマチュア将棋連盟・将棋ジャーナルの発行元)に味方するのは反対という理由だったろう。アマ連では朝日アマ名人戦と読売日本一戦が主力で、今までセミプロ(将棋でお金を稼ぐ人)を締め出していたアマ棋戦になんでも有りという風穴を開けた。のちにアマ名人戦(連盟主催)もそのようになった。
私は1984年に辞めたから6年間やったことになる。生活がかかっていたから隔月刊を月刊誌にし、売上を伸ばすために営業・販売も力を入れた。最盛期には1万部近く出た。その後は後輩の横田稔氏が編集を引き継ぎ2年間やった。ここまでがジャーナルらしい誌面だったと思う。すなわち清濁合わせて呑むアマ強豪のパワーで進んでいたわけだ。
このあと矢口勝久→団鬼六とオーナーが代わり、当然誌面も変わった。
将棋ジャーナルは誕生の時から鬼っ子で祝福されざる奴だったが、アンチ勢力のパワーで強引に突っ走った。そしていくつかの成果も将棋界にもらたした。その後はパワーが失われ、それに替わるものを見付けないまま雑誌を出し続け、ついには力尽きた。二度ほど(団氏と後援者に)編集を手伝ってくれと言われたことがあるが、将棋ジャーナルの編集というのはとても片手間に出来る代物ではなく、24時間その気でやらないといけない。ライターになっている身では不可能ですとお答えしておいた。
しかし生まれたとたん殺す相談をされた奴にしてはしぶとく生き延びたほうかもしれない。また違う雑誌に生まれかわって暴れてほしいと願う。そのとき私が暇ならやるかもしれないなあ…。
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まだ『将棋ジャーナル』が元気だった頃、書店で『将棋ジャーナル』を立ち読みしたことがあった。
アマ強豪の記事が圧倒的に多く、内容が中・上級者向きで、(こんな本を買う人って本当にいるのかよ)と思ったほどだった。
本を開くと濃い空気が漂ってくるようなイメージ。
アマ三段の私が見てもそうだったのだから、今から考えると、読者ターゲットを極限にまで絞り込んだ雑誌だったのだろう。
今回、たまたま当時の『将棋ジャーナル』が数冊手に入ったのでじっくり読んでみると、これが結構面白い。(今後、このブログに将棋ジャーナルの記事が登場することが増えるかどうかは別として)
ものすごいパワーが感じられる誌面だったことが理解できる。
湯川博士さんと知り合ってから21年。数え切れないほど一緒に酒を飲んでいるが、初めて『将棋ジャーナル』の内容を肴に酒が飲めそうで、今から楽しみだ。