将棋世界1985年1月号、加藤一二三王位(当時)解説の「私の戦った巨匠たち」より。
加藤王位がまず選んだ将棋は、弱冠20歳で大山名人に挑戦した第19期名人戦の第1局。オールドファンなら「ああ、あの将棋か」と手を打つ対戦である。
この昭和35年、A級順位戦を6勝2敗で乗り切り、加藤青年は颯爽と名人戦に登場した。
加藤八段は当時早稲田大学在学中でしかもその年の1月に紀代夫人と結婚したばかり。学生服姿で大学に通い、家では和服でくつろぐ。対局をすればA級八段。この天才に対するマスコミの取り上げ方がすごかったのは当然の事である。
加藤「私がA級八段になった頃ね、朝日新聞で一面全部使って”加藤・二上時代が来たるか”っていう大特集を組んでくれましてね。へーっ、俺はこんなにすごいのか、なんて感心したことがありました(笑)。名人に挑戦した時のことを思い出してみますと、その前年には王将戦の挑戦者決定戦まで進んだり、サンケイ新聞の早指し王位戦(棋聖戦の前身)で灘蓮照八段に挑戦して、タイトルを取ったりしてましてね、自分としては非常に昇り坂のところでこの名人戦に臨むことができたわけですよ。だから、大山名人に挑むといっても、特に名人を意識するとか、作戦を立てるとか、そういったことはありませんでした。私としては、こういったチャンスはこれからも何度でも来るだろうと思ってましたからね。是が非でも勝ちたいって気はもってなかったですね。でも、今になって思えば、大山さんの方は、この若僧には絶対負けられないっていう気持ちがあったと思うんですよ。この名人戦は、1勝のあと4連敗で結局私が敗れたんですが、大山さんには技術的にも劣っていたと思うし、それに精神的な面でも劣っていたんじゃないかと反省してます」
(中略)
加藤「一昨年、私が名人になって防衛戦に迎えたのが20歳の谷川八段。不思議なもので、私が25年前に大山名人に挑戦した時とよく似た状況になったんですよね。私も、谷川八段と戦いながら昔のことを思い出したりしていました。ただ、昔の私とその時の谷川さんとでは気持ちの上で、かなり違っていたようですね。谷川さんの方が”勝つんだ”という気迫の面で昔の私よりずっと勝っていたと思います。もちろん、防衛戦の時は私も是が非でも勝つという気持ちになっていましたけどね」
注目の第1局は始まった。加藤八段の初手▲7六歩に大山名人は5分で△8五歩。振り飛車の名人として長く君臨した大山名人だが、当時はまだ”矢倉を得意とする名人”であった。
ところで、最近のタイトル戦でも相矢倉戦が続くと「矢倉は面白くないから振り飛車が見たい」というファンの声をよく聞くが、この当時の加藤八段にも「若いのだから矢倉などというジジくさいのはやめて、もっと新傾向の将棋を指せ」という手紙がきて困ったそうである。どうも矢倉は序盤が渋く、大衆受けしないのは今も昔も同じらしい。
加藤「しかし同じ矢倉でも、内容的にはずいぶん変わっていますよ。特に変わったのは端攻めに対する感覚。今の矢倉は端攻めを抜きにしてがありえませんが、当時は中央の戦いがほとんどすべてですからね。ただし、本局の大山名人の△3三銀から△4四銀左というのは当時としても珍しい手で意外でした。意外でしたが、内心はありがたいナって気もしたんですよ。大山名人は△4四銀左の一手を”千日手を避けた”という風におっしゃってたのを記憶しています。当時の矢倉はじっくり組み上がると千日手になることがよくあったんですね」
初手からの指し手
▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△4二銀▲2六歩△6二銀▲4八銀△3二金▲7八金△4一玉▲5六歩△5四歩▲6九玉△5二金▲3六歩△7四歩▲5八金△5三銀右▲2五歩△3三銀▲7九角△4四銀左 (1図)
(中略)
大山名人の△4四銀左は盤上に大きな波紋を投じることになった。
この手について、当時升田幸三九段が面白い感想を述べているので紹介しよう。
升田「大山君と加藤君は共通したものがある。実に共通しています。まあ相撲取りでいうならば、出羽錦と琴ヶ浜が尻を引いて構えたようなもので、二人が四ツに組んだら出ることができない。そういうところは大山君は年長者だし経験豊富だから、よく知っているんじゃないかと思う。若手は立ち上がりに何かちょっとミツを欲しがる。そこで開いてパッと叩いていこうとするように4四銀左と上がった。ところが、加藤君は大鵬よりもワザは上だし、精神もまさっております。将棋指しで大学まで行こうというんだから(笑)。相手の動作を見、あわててミツを取りに行かなかった。兄貴分の出羽錦は困ったわけだ。……大山君や自分は修行によって落ち着いた状態を得ているけれども、将棋以外でも落ち着いているわけじゃない。だけれども加藤君というのは将棋以外のことをやっても落ち着いておる。これはあとからのものじゃない。先天的なものなんです。……まあこれは私の推測ですが、とにかく大山君の性格として4四銀左などと出る性格じゃない。絶対出ません。私は数多く指しているが、そういうことをしない人です。それが出るには、出合い頭にミツを欲しがってくる奴を叩こうとしたんじゃないか。あと若い者を相手に水が入るようなことじゃいけないからというので4四銀左としたということもいえる」
(以下略)
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1960年の名人戦、大山康晴名人37歳、加藤一二三八段20歳。
大山名人は、第1局で敗れたものの、その後は4連勝して、名人位を防衛した。
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「矢倉は面白くないから振り飛車が見たい」
「若いのだから矢倉などというジジくさいのはやめて、もっと新傾向の将棋を指せ」
矢倉は昔から、アマ強豪を除くアマチュアには人気がなかった戦法だ。
居飛車対振り飛車の対抗形のような捌き合いにならず、わずかなポイントを積み重ねていくような将棋が多い、一手一手の意味がわかりづらい、などの理由があるのだろう。
現代では、ネット中継などのリアルタイムでの懇切な解説があるので、昔に比べ矢倉に対する抵抗感は減っているように思われる。
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升田幸三九段の△4四銀左の感想。
はじめ、私は「ミツ」を蜜だと思ってしまったが、これは相撲「褌(みつ)」つまり廻しのこと。
時代が時代なので、私も知らない力士の名前が出てくる。
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私が相撲に夢中だったのは幼稚園から小学校低学年までで、柏戸、豊山のファンだった。
大鵬、栃ノ海、佐田の山、若秩父、明武谷などがいた時代。
野球も幼稚園から高校生時代までは大の巨人ファンだったが、長島選手引退を機に、徐々に興味は薄れていったと思う。
今でも私の頭の中は、巨人といえば、柴田、黒江、王、長島、森、国松、広岡、末次、土井、金田、堀内、城之内、宮田で、阪神のピッチャーは村山とバッキーで、大洋は近藤和彦という時代のままだ。
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自分の中の趣味としては、将棋よりも相撲と野球が先輩格であるが、昭和の頃から相撲や野球は全く見なくなっている。
なぜ将棋だけが続いているかというと、自分で指すからだと思う。
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相撲界では、横綱・日馬富士が引退の意向を固めたという。
相撲界の伝統的な流儀は、それはそれで悪くないことは続いていてほしいとは思うが、貴乃花親方がなぜあそこまで叩かれなければいけなかったのかが理解できない。