将棋マガジン1986年4月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。
大山-二上戦はいつものように特別対局室で行われている。私がいったときは大山が席を外していて、二上がかがみこむようにして考えていた。無言、室内はひっそりとしている。局面はまだ
序盤の段階だが、なんとなく二上がまずそうな形だ。
記者室で丸田にそれを言うと、「ウン」とうなずいた。
大広間はC2順位戦でこちらはにぎやかである。ガヤガヤとしゃべっているわけではないが、扇子を鳴らしたり、お茶を飲んだり、その他いろいろな仕種の音がけっこううるさい。なにしろ30人近くいるのだから。
なんとなしに局面を見て回っていると、手前の間で「勝つ気なんかなかったんだよ。だけどあんたはまずすぎるね」と大きな声がした。ご機嫌なのは木村(嘉)で、快勝したらしい。
みんな「エッ?」という顔でそちらを見る。早く終わったのと、依田が負けたのが意外だったのだ。依田は1敗で昇級候補。星勘定の上では勝って当たり前、なのである。
どんな風にして負けたのか、見せてもらうと、なるほど依田はまずく指していた。
1図は、依田が2二の飛を5二へ回した場面だがこれが悪手。銀を持たれると一たまりもない、いわゆる味のわるい形である。木村はその欠点を見逃さなかった。
1図からの指し手
▲8五歩△同歩▲8四歩△同銀▲8五銀△同銀▲同桂△8四歩▲3四歩(2図)銀が欲しいから、▲8五歩から▲8四歩と打った。ちょっとした手順の妙で、△8四同銀と取らせて▲8五銀と出れば、どうしても銀交換の形になる。ここで先手の優勢がはっきりした。
銀を持って▲3四歩が狙いの一手。
2図からの指し手
△5五歩▲3三歩成△同金▲7六桂△5六歩▲3九角△6三銀▲6一銀△5一飛▲7二銀成△同玉▲6五歩△5四銀▲8四桂△6三玉▲6四歩(3図)形にはまれば木村も強い。というより、やる気を起こさせてはいけないのだ。▲7六桂と好点に桂を据えて、木村はすっかりいい気分になった。
依田は△6三銀と受けたが▲6一銀が痛打。金をはがして、▲6五歩がまた急所。依田はなすすべがない、といった有様で、3図となっては終わりである。
3図で、△6四同玉は▲6五歩△5三玉▲7二桂成まで。また△5二玉は▲7二桂成△5三角▲5五歩でどうにもならない。
実戦は―。
3図以下の指し手
△6四同玉▲6五歩△同銀▲同銀△同玉▲5二歩△同飛▲6三銀まで、木村五段の勝ち。と、簡単に終わってしまった。木村は早大出の学士プロである。たしか大学院まで出たはずだ。家庭のことなど、プライバシーについては訊いてもはぐらかされてしまうので判らないが、とにかく異色の棋士である。なんとなく、時代劇に出てくる、やんごとなき方のご落胤が市井で無頼の生活を送っている、といった感じがある。そういった話には粋筋の女性が出てきたりして、艶っぽいのだが、木村にはそんな雰囲気がまるでない。ひたすら、酒と競輪そして将棋に明け暮れているのである。
この人には忘れられない憶い出がある。それは奨励会に入るときのことだ。
入会試験を受けたのは私よりちょっと後の、昭和27年だったと思う。当時、関根(現九段)、木村といえばアマ棋界で無敵を誇った大スターで、それがプロ入りするのだから話題になった。
さて当日、1級の試験を受けるというので、どんな将棋を指すのかと思って見ていると、木村は、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩のつぎ、平然と▲2四歩と突いた。本欄の読者には説明するまでもないだろうが、それはやってはいけない手である。そんなのは初歩の常識だ。相手の小暮1級は{なんだ?」という顔で△2四同歩と取り、以下あっさり木村が負けてしまった。終わると「そうか先手がわるいのか」なんて言いながらゲラゲラ笑っていた。
当時から常識なんてクソくらえ、という無頼派だったのである。そんな将棋でも関根と共に試験に受かった。おそらく今の1級より強かったのではないか。
(以下略)
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木村嘉孝七段は、1931年生まれで1960年に四段、1991年に引退している。木村義雄十四世名人門下。
木村嘉孝七段について書かれた記事は非常に少ないので、貴重なエピソードだ。
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木村嘉孝七段が四段になった当時は、大学を出た棋士は加藤治郎八段、北村文男四段、在学中が加藤一二三八段(段位は当時)だけだった。
全員が早稲田大学で、木村嘉孝七段の1年後に四段になった木村義徳九段も早稲田大学卒業。
見事に早稲田勢が占めている。
後年の、丸山忠久九段、北浜健介八段、広瀬章人竜王、中村太地七段、早水千紗女流三段、宮宗紫野女流二段、竹俣紅女流初段も早稲田大学。
卒業した後に奨励会に入った、奨励会に入ってから入学した、プロになってから入学した、と3パターンあるが、早稲田大学出身棋士が多い。
将棋史的には面白い傾向だと思う。