近代将棋1984年6月号、「名棋士インタビュー 谷川浩司名人の巻 普通にしているのが一番ですね」より。インタビュアーは谷川俊昭さん。
―ところでだいぶ昔の話になるけど(笑)例の”名人位を一年間預からせてもらいます”という名セリフね。あれは、本当のところはどうだったの。
「ああ、あれね。兄貴にはかなわないなあ(笑)。あれに似たことを、米長先生が王将になられた時に、手記として書かれたんです。それを読んで、ああ、これはいい言葉だなと思って流用したんですね。まあ、米長先生が使ったのは、たぶん少し意味が違うけどね(笑)」
(中略)
―一年間、預かってきた訳だけど、今の気持ちは。
「最初はしばらく落ち着かなかったけれど、今は、自分の物であるのが当然だという感じ。名人という肩書きが自然になっちゃったでしょ。免状書きにしても、取材にしても、将棋の仕事で紹介されるにしてもね。だから、それが急になくなっちゃうと寂しいでしょうね。だからといって、私の場合、宣言しても勝てる訳じゃないから、去年のように挑戦者という気持ちでいくつもり。その方がいい結果が出ますからね。私は内藤先生のようなタイプじゃないから。まあ、夜が来たら寝て、朝が来たら起きて、腹が減ったら飯を食う。それと同じように将棋も指したいですね」
何事も普通に…というのが谷川流なのだ。
(中略)
―兄弟そろってそうなんだけど、将棋と私生活の勢いは全然違うね(笑)。
「そう、やっぱり自分の立場というか、ある程度回りのことは気になるね」
―例えば、サングラスでもかけて変装して、街を歩きたいと思ったことはない?
「ウーン、そこにサングラスがあればやってみるけど、サングラスを買ってまでやろうとは思いませんね。まあ、いろいろ書かれて、ときには嫌なこともあるけど、殆どが好意的だし、神話もいろいろ作ってくれて、いいんじゃないですか」
―まあ、いろんな経験ができるという点では得してるね。ところで、印象に残った取材っていうと。
「長島さんとの対談とか、あと、紅白ってのもありましたね。それから変わり種としては、ミス大阪の審査員をやりまして、少しホッとしましたね。私がいいなと思った女性が予想通りミス大阪に選ばれたという意味で」
―フーン、でも他の審査員はかなり年配の人でしょう。そういう人と見方が同じってのは、かえって少しズレてんじゃないの。
「なるほど、そういう考え方もあるのか、傷つきました(笑)」
(中略)
ふと、テレビのスイッチをひねると、高校野球のゲストとして、谷川名人が出ていた。その中で印象に残ったせりふを少し、
「勝負で一番いけないことは、結論を急ぐことですね。形勢が良い時は早く決めようと焦るし、悪い時はすぐ諦めてしまう。本当に強い人はどんな時でも、いくら長くなっても平気ですね」
その時は、なるほどいい事を言うなと思って聞いていたが、よく考えると、谷川浩司はこのせりふを全く実行していないようだ。本人に聞いてみると”ああ言っておけば、知らない人は感心して聞いてくれるでしょ”と笑っていたが、確かに、急いだ結論でも、それが正しいものならそれで良いのかもしれない。そして、それが谷川流でもあるのだ。
(以下略)
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「名棋士インタビュー」は谷川俊昭さんがインタビュアーの連載企画で、この回はたまたまお兄さんが弟をインタビューする形となった。
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「名人位を一年間預からせてもらいます」は有名な言葉だが、意外な背景があったことがわかる。
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「でも他の審査員はかなり年配の人でしょう。そういう人と見方が同じってのは、かえって少しズレてんじゃないの」
これは、本当にそのような理論が成り立つかどうかは別としても、新鮮でユニークな視点だ。
楽観的な人ならば、同世代での競争率が低くなってラッキーと思うだろうし、悲観的な人ならば、感覚的にズレているのではないだろうかと心配してしまうだろう。
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1985年前後の「麻布十番祭り」最終日の夜、「ミス麻布十番祭りコンテスト」が行われた。
審査員には、その当時麻布十番に住んでいた志村けんさん、芸能評論家の故・加東康一さんが加わっていた。
この時ミス麻布十番祭りに選ばれたのは、プロポーションが良く凛々しい感じの女性だった。
しかし、個人的には志村けん特別賞(志村けんさんが独断で決める)に選ばれた女性の方が、ふんわりとした柔らかい雰囲気で、自分が審査員ならこの女性に一票を入れていたろうなと思ったものだった。
志村けんさんは私よりもずっと年上だが、この時の審査員の中では最も若かった。
谷川兄理論に照らし合わせてみると、私はズレてはいなかったことになるのだろう。