米長邦雄永世棋聖「序盤を研究するのは、ファッションのセンスを磨くようなものだ」

将棋マガジン1991年2月号、高橋呉郎さんの「米長邦雄 サービス精神の疾走」より。

「この男、できるな」

<宿へ戻って、また室内遊戯。

 僕は、そこで、非常にいい光景を見た。米長と真部とで碁を打ちそうになったので、僕、オセッカイにも、将棋を指しなさいと言った。

 米長、正座して、ワイシャツを着て、ネクタイを締めはじめる。僕は、そういう米長が好きだ。無言である。そこにA級棋士の貫録がある。あだやおろそかに内弟子修業をしたのではないのだ。もう一度書くが、米長は終始無言である>

 この文章、中年以上の将棋ファンなら、どこかで読んだような気がする方が多いのではないかと思う。そう、山口瞳『血涙十番勝負』の一節です。

 ほかにも、七・八段当時の米長邦雄について書いた部分が多いけれど、私は、とりわけ右の一節が印象に残った。これを読んで、米長邦雄という棋士に注目するようになったといってもいい。

 まだ三段だった真部一男と稽古将棋を指すのに、服装を正したというのが、いかにも爽快な感じだった。また、「終始無言」というのも、この男、できるな、と思わせるものがあった。米長、二十八歳のころである。

 当時の私は、ごくふつうの将棋ファンだった。NHK杯戦のテレビ放送は、欠かさず観ていたので、米長の顔ぐらいは知っていたが、どんな男かまでは知らなかった。順位戦の昇降級のきびしさも、『血涙十番勝負』を読んで初めて知った。

 やがて米長は王将戦で、時の名人・王将・中原誠に挑戦した。その自戦記が毎日新聞に載った。長年、他人の原稿を読むのが商売だったで、自筆の文章か、ゴーストライターが書いものかは、読めばわかる。これが、じつにおもしろかった。

 気取りのない文章で、感覚が瑞々しい。しかも、とぼけたューモアがある。山口瞳氏と会ったときに、自戦記の話をしたら、「一晩で書いたらしいよ」といわれて、びっくりした。これは、いよいよ目が離せない棋士だと思った。

 ほどなく、実物に接する機会が訪れた。そのころ、私は某週刊誌の読書欄で、有名人の読書の感想を聞く仕事をしていた。人選は編集部任せだし、取材の約束もとってくれる。こちらは、指定された日時に出かけていけばよかった。小さなコラムだから、原稿料はタカが知れているけれど、いちどは会ってみたかった人に会える、という役得がある。

 つぎは将棋の米長邦雄といわれたときも、ちょっと得をした気分になった。たまたま、その直前に、中平邦彦『棋士・その世界』を読んでいた。この本も名著です。

 中平氏は、米長について、こんなエピソードを紹介している。

<インタビューの申し込みのため電話したら、「コーヒー的ふんいきですか、それともウイスキー的ふんいきですか」>

 これは、なかなかのサービス精神の持ち主であると思った。私が米長の自宅を訪ねたのは、午前中だったから、さしずめ”コーヒー的ふんいき”になるかな、と思ったが、しいていえば、”日本茶的ふんいき”になった。

よじれたインタビュー

 米長邦雄といえば、口も八丁手も八丁、将棋連盟有数の社交家タイプと目されているようだが、意外に人見知りをする。初対面のとき、そんな印象を受けた。いまでも、そう思っている。

 そのとき、米長は、相場師の伝記かなにかをとりあげたが、ごくまっとうな話だったように記憶する。すくなくとも、談論風発といった趣ではなかった。それと、私の認識不足で、棋士と株の結びつきが、いまひとつピンとこなかった。

 必要な取材は、二十分も話を聞けば事足りた。将棋界について、聞きたいことは山ほどあったが、初対面の相手に、あれこれ質問するほど、私は図々しくない。インタビューの相手に、余分な時間をとらせないのが、私の流儀でもあるので、しばし雑談をして引き上げた。

 もちろん、印象はわるいはずがない。山口さんの文章から予想した以上に、挙措も話しぶりも折り目正しい。すでに、原田泰夫九段命名の「さわやか流」という呼称も耳にはいっていたので、なるほど、と納得もした。

 こうして、初回のインタビューは、つつがなく終わった。ところが、二度目はそうはいかなかった。

 昭和五十一年に、米長は名人戦の挑戦権を獲得した。私は、夕刊紙に米長のインタビュー記事を書くことになった。

 前回のインタビューから、ほぼ二年たっている。おそらく米長は私の顔をおぼえていなかったにちがいない。それは、どっちでもいいのだが、編集部が設営した新宿の小料理屋で会ったら、なんとなく雰囲気がおかしかった。人見知りのせいばかりでなく、米長の表情が硬いように感じた。

 もともと私は、こういう大舞台を前にしたインタビューは好きではない。どうしても発言が慎重になるし、こちらも質問に神経をつかう。結局、NHKのアナウンサーがインタビューしたような記事になる。

 私は無難なところで、まず経歴から質問することにした。おおよその経歴は頭にはいっていたけれど、本人にしゃべってもらうと、かならず、いくつか新しい発見がある。それをもとに話を広げていくことができる。これは、よくつかう手で、定跡みたいなものです。

 しかし、どうやら私は定跡の選択をまちがえたらしい。あるいは、私の質問の仕方がヘタだったのかもしれない。質問が四段昇段にさしかかったところで、米長が、むっとしたような表情でいった。

「経歴は『将棋年鑑』に出ているはずですから、それを見てください」

 相手が偉そうな顔をした政治家かなにかだったら、私も、大きなお世話だ、と開き直ったかもしれない。”さわやか流”を相手に喧嘩をしたのでは、非はあきらかに当方にありそうなので、私は、あっさり方針を変えた。

 質問する材料に困ったわけではないけれど、それ以後、流れがギクシャクしたことは否定できない。おまけに、話が妙な方向にズレていった。

 おりから、国会でロッキード事件の証人喚問が行われていた。その前に、小佐野賢治が喚問された。

 米長は、ロッキード事件などとは関係なく、小佐野賢治は一流の人物である、と詳した。テレビを見ていても、質問するほうと、されるほうの格のちがいが、はっきりわかるという。私は、なにげなく「小佐野も同じ山梨県の山身ですね」と口をはさんだ。べつに他意はなかったのだが、米長は憤然として、こんなふうにいった。

「同郷だからとか、そんなことは、いっさい関係ない。私も将棋指しとしては、一流の域に達したと思っています。ひとつの道で一流に達すれば、ちがう道の人でも、一流かどうか見分けることができます」

 そういわれて、私は困った。これでは、こちらは値踏みされているようなものだ。私は、すかさずいい返した。

「さしづめ、きょうは、一流の棋士に三流のインタビューアーが質問していることになりますか」

 米長はあわてて、「そういう意味でいったんじゃありません」と打ち消した。そのあわてようがおかしかったので、私も一笑してすぐに話題を変えた。が、ここまでよじれては、もうインタビューの体をなさなれい。

いちばん疲れる将棋

 インタビューからうまくいかなかった理由は、私の質問がヘボだったのを棚に上げて、つぎのように説明できるかもしれない。

 いまでもわかっているとは思わないけれど、当時の私は、名人戦の挑戦者になることが、どんな意味をもっているのか、ぜんぜんわかっていなかった。しかも、あのときは、米長にとって、初めての名人戦挑戦である。門外漢の想像を絶するほど、神経が張りつめていたにちがいない。そこへ門外漢のインタビューアーが現れて、妙な質問をするー。

 それに、当時、米長は三十二歳。天下取りを前に覇気横溢していた。そこへノーテンキなインタビューアーが現れて――これはもう、うまくいくはずがない。

 その後、私が観戦記を書くようになって、数年ぶりに将棋会館で再会した。以後、ずっと”さわやか流”の米長に接している。

 約十年間に、私が観戦したのは七、八十局程度だろう。米長の将棋は、指折り数えたら、六局観戦している。全棋士中で、もっとも多い。しかも、ふしぎな巡り合わせで、全部、米長が勝っている。一局、二局はべつにして、ほかに全勝は真部の三勝だけ。もしかすると、私は米長にとって、いちばんゲンのいい観戦記者かもしれない。

 観戦記を書く、と偉そうなことをいっても、棋力はアマ初段程度だから、感想戦を聞いても、よくわからない。米長は、そのへんを察しているので、感想戦の指し手をすすめながら、ときおり念を押すように私の顔を見る。あるとき、よほど私がチンプンカンブンの顔をしていたらしい。米長は、にこやかにいった。

「指し手の解説なんて、どうだっていいですから、米長は強い、強いって、ベタベタに褒めておいてください」

 対局中にも、あきらかに観戦記用と思えるサービスをする。相手が無口なら、隣で対局している棋士に話しかけてでも、観戦記の材料を提供してくれる。

 ほかの将棋を観戦していて、お世話になったこともある。女流棋士の対局で、感想戦をしているところへ、別室で対局中の米長が、ふらりと現れた。盤面をのぞき、こう指せば、と教えたあとで、私のほうを見て、「この手は、われわれの用語では、『パンツをはかせる」というんです。そのまま書くのは、ちょっと品がないかな。うん、米長がそういった、と書くなら、かまわないでしょう」

 ほどなく、米長のサービス精神は、外にも向けられた。義理がからんで引き受けた仕事でも、精いっぱいサービスする。独特の勝負哲学をセンスのいい言葉で表現するので、受けもよかった。マスコミからの注文がふえ、それに全国各地からの講演の依頼も加わって、タレント並みの生活をしいられた。

 そんな多忙な生活のなかで、将棋は泥沼流で勝ちまくった。大山、中原についで、三人目の四冠王を達成したばかりか、年間最多対局の新記録も樹立した。

 米長のサービス精神は、天性のものだろう。天性でも、無意識のうちに神経をすり減らしている。むしろ、天性だからこそ疲れるといってもいい。肉体の疲れは、自覚症状が出るけれど、天性のサービス精神による神経の疲れは、自覚症状が出ないままたまっていく。

 梶山季之は、サービス精神の塊みたいな男だった。信頼する編集者に頼まれれば、警視庁ににらまれるのを覚悟のうえで、目いっぱい読者サービスをする。人間関係でも、老若男女を問わず気をつかう。そんなサービス精神による神経の疲れがたまって、死を早めたように思えてならない。

 米長は、なんでも目いっぱい突っ走ろうとするあたりが、どこか梶山に似ている。四冠王前後の米長をみていると、この男は、ずいぶん疲れる生き方をしているな、と感じたものだ。

序盤はファッション

 芹澤博文と識り合ってほどなく、芹澤から電話がかかった。私の観戦記を読んだら、指し手の解説部分でイライラした。いつでも解説してあげるから、いらっしゃいという。お言葉に甘えて、私は、ずいぶん無料で教わった。芹澤のサービス精神も、並みたいていではなかった。

 中原・米長の対決時代に、相矢倉戦を解説してもらったとき、芹澤はこういった。「中原や米長の矢倉が、並みの矢倉とちがうのは、後手番のときに出てくるんです。主導権をにぎろうとして、積極的に動いていく。ふたりのちがいを挙げれば、中原は修正派です。既存の型に改良を加えていく。米長は創造派です。他人の真似はしたくない。だから、猛烈にツッぱる。いちばん疲れる将棋ですね」

 将棋まで”疲れる”とあっては、由々しき問題である。もっとも、そのへんに米長の真骨頂があるといえないこともない。

 ひところ、米長は「西の谷川」とともに「序盤の二ヘタ」を自任した。芹澤の話から推すと、あれは中・終盤に自信があるから、平然といっているわけではない。サービス精神のおもむくまま、おもしろい将棋を目ざしている、と解したほうが当たっていそうだ。

 だから、未長は、序盤が雑だとかいわれても、どこ吹く風という顔をしていた。そういえば、序盤の理論については、人の何倍もうるさい芹澤が、米長は序盤がダメだ、というのを聞いたことがない。

 ところが、近年、異変が起こった。米長は辞を低くして、若手棋士と研究会をもつようになった。タイトル戦の控え室にも、よく顔を出す。お目当ての棋士の対局があれば、将棋連盟に足を運んで、感想戦に加わる―外の仕事もセーブして、将棋一筋の生活に戻っている。

”泥沼流”廃業を宣言し、もっぱら”さわやか流”を自称する。序盤を重視し、将棋からも”疲れる”要素がなくなってきたのは、慶賀すべきことかもしれないが、なんとなくさみしい感じがしないでもない。

 それかあらぬか、南芳一から王将を奪ったとき、若手棋士から「序盤研究の差が出た」という声も聞かれた。プロからみれば、そうかもしれないけれど、われらオールド・ファンとしては、米長が南を力でねじふせた、と思いたい。

 泥沼流、いまいずこ―米長は、ほんとうに変身したのか、いや、どうもそうではないらしい。

 米長は衛星放送の将棋番組で、「序盤を研究するのは、ファッションのセンスを磨くようなものだ」といっていた。ついでに、「序盤はセンス、あとは力でこい」とでもいってくれれば、もっと安心したのに……。

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高橋呉郎さんの鋭い洞察力。

素晴らしい米長邦雄論だ。

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「米長のサービス精神は、天性のものだろう。天性でも、無意識のうちに神経をすり減らしている。むしろ、天性だからこそ疲れるといってもいい。肉体の疲れは、自覚症状が出るけれど、天性のサービス精神による神経の疲れは、自覚症状が出ないままたまっていく」

サービス精神旺盛な人すべてに、このことが当てはまるかどうかはわからないが、米長邦雄永世棋聖については当たっているような感じがする。

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「『米長は創造派です。他人の真似はしたくない。だから、猛烈にツッぱる。いちばん疲れる将棋ですね』将棋まで”疲れる”とあっては、由々しき問題である。もっとも、そのへんに米長の真骨頂があるといえないこともない」

一般的に、疲れる将棋と疲れない将棋、もちろん心理面の作用もあるだろうが、どのような分け方になるのか。

少なくとも序盤に関しては、居飛車が疲れる将棋、相振り飛車を除く振り飛車が疲れない将棋ということになるのだろう。

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「”泥沼流”廃業を宣言し、もっぱら”さわやか流”を自称する。序盤を重視し、将棋からも”疲れる”要素がなくなってきたのは、慶賀すべきことかもしれないが、なんとなくさみしい感じがしないでもない」「われらオールド・ファンとしては、米長が南を力でねじふせた、と思いたい」

この変化(米長道場での若手棋士との共同研究の積み重ね)が、1993年に米長九段が名人位を奪取する原動力となるが、河口俊彦七段(当時)は、その反面として、筋の良い序盤だと「泥沼流」が出なくなってしまい、米長将棋の魅力が薄れてしまったと述べている。

真部一男八段(当時)「中原・米長それぞれの羽生世代対抗作戦」

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「序盤を研究するのは、ファッションのセンスを磨くようなものだ」

たしかに、「泥沼流」と「磨かれたセンスのファッション」は対極に位置していると言える。