身動きの取れない必至状態の銀が、24手もの間同じ場所に居座り続けて大活躍をする話。最後にこの銀は生還する。
近代将棋2001年2月号、青野照市九段「実戦青野塾 心に残る先輩の言葉」より。
1976年NHK杯戦、有吉道夫八段(先)-青野照市五段戦。
(太字が青野九段の文章)
いろいろな先輩の言葉の中で、加藤治郎名誉九段の言葉は、私の将棋にも直接影響する言葉であった。
加藤先生の口ぐせは「早く劣等感に気がつけ」というものだった。
劣等感に気がつくというのは、自分の欠点を知る、自分が人より劣っている部分を自覚する、ということと私は受け取っていたのだが、それが早ければ早いほど良い、ということである。
私は奨励会に入会して一、二年たったころから、自分の将棋がどうも鈍重だなと思うようになった。先輩に真部八段、菊池七段のような、早見えで筋の良い棋士がいたこともあったが、どうしても駒の損得にこだわるクセが、なかなか抜けなかったからである。
このクセというか感覚は、四段になり、新人王戦優勝や勝率第1位を取ったあとでも、まだ残っていたように思う。
それを痛切に感じたのが、昭和51年10月のNHK杯戦、対有吉道夫八段(当時)戦である。
(中略)
テレビ将棋で負けても、「あれは時間の短い将棋だったから」と、本人もファンも妙に納得してしまうことがある。しかし私は、早指し戦こそその棋士の個性、棋風、そして才能までが、見えてしまうと思うのである。
(中略)
ところがここで、私は悪魔に魅入られたかのような手を指してしまう。それが△7六歩から△7五歩と打ち、銀を出させてからの△7三銀で、銀バサミで先手の銀を取ろうという手だった。前述の、駒得をしたくなるクセが、また出てしまったのである。
△7三銀と引いた上図では、確かに先手の銀は銀バサミにあって、行き場所がない。
しかし、いまの筋の良い若手棋士なら、こんな銀が死ぬわけはないとして、おそらく銀を殺そうという順は1秒か2秒で捨ててしまうだろう。
つまりテレビ棋戦で時間がなかったからというのは、言い訳にならない。
以下、▲3四歩△4四銀▲4六歩△同歩▲同銀△6四歩。
▲3四歩に△同金と取れないのも銀を取りに行ったからで、△同金は▲5四銀で、逆にこの銀に働かれてしまう。
△4四銀に▲4六歩の合わせ。このときすぐに△6四歩と突けないのが、私の誤算だった。△6四歩には、▲4五歩△5三銀▲5四歩△6二銀左▲7四歩△8四銀となるが、ここで▲4六角と出られると、△6五歩に▲5五角の王手飛車となってしまうのである。(下図)
そこで仕方なく、△4六同歩と取って△6四歩と銀取りに突いたのだが、
ここから▲4五歩△5三銀▲5四歩△6二銀左▲4四歩△同金▲4五銀。
▲4五歩~▲5四歩で、ひどいゆがみ形にされたあと、▲4四歩から▲4五銀とぶつけられては、手にされてしまったというレベルではなく、完全に勝負あったという将棋になってしまった。
上図は、後手が唯一銀を取れる可能性のある局面だった。すなわち△4五同金▲同桂△6五歩という手はあるが、▲1三歩が好手で、△同歩に▲3三金と打ち込まれると、
後手が桂で取った瞬間に▲1三香成と成られる形だけにたちまち寄ってしまうのだ。
たとえ銀が取れても、玉が寄ってしまっては銀を取ったとはいえない。銀を取るために引いた6二の銀が、いかにひどいかがおわかりと思う。
先手が▲7四歩が利くのに、最後の一歩を打たずに温存しているのは、この▲1三歩のような手を含みにしているからで、このあたりが有吉八段の老獪さでもある。
二つ上の図以降、△4三歩▲7四歩△8四銀▲4四銀△同歩▲4一金。
△4三歩と打つときには、ずいぶん辛かったことだけが、断片的に私の頭に残っている。
後手の△4三歩に、ここで初めて▲7四歩をきかす。銀を殺すために、すべてのゆがみ形を受け入れたのだからここで銀を交換するわけにはいかない。
しかし△8四銀に金を取って▲4一金が決め手ともいうべき一手で、後手陣は目も当てられない形となってきた。
すなわちこの金は、角を殺しているだけでなく、△6五歩の銀取りには▲4二金△同金▲6四角の飛車金両取りをみているからだ。
以下、4三銀△4二金▲同金△6四銀▲5四銀△2四歩。
やむを得ず、△4三銀と私は自陣を補強したものの、▲4二金から▲6四銀と銀を生還されては、後手にいい所が一つもなくなってしまった。
たとえていえば、ワナのつもりで敵の軍勢を城の中に誘い込み、包囲して全滅させるつもりが、強力な敵の援軍が予想以上に早く到着し、結局城中の敵と呼応され、逆に崩壊をまねいたようなものである。
以下、△同歩▲同角△3三歩▲6八角△2六歩▲1二香成△同香▲1三歩△2七歩成▲1二歩成△3二玉▲2二と△同玉▲2三歩まで有吉八段の勝ち。
▲2三歩と打たれて私は投げた。飛車を成られてしまってはいくら粘っても勝ちが出るわけがない。
負けはしたが、この将棋は私にとって転機の将棋となった。加藤先生のいう劣等感、すなわち駒得にこだわって大局に遅れがちの自分の将棋を、明らかに自覚したからである。
その後は極力、大局観で指そうと努めてきたつもりではあるが、人は持って生まれた感覚、感性はあまり変わらないものだとも最近思うようになってきた。
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このような一局は、本当にテレビ向きだと思う。
絶体絶命の中、獅子奮迅の活躍をした銀が輝いている。
青野九段の文章も面白い。