丸山忠久九段の研修会時代

将棋世界1992年3月号、武者野勝巳五段(当時)の第3回富士通オープン将棋トーナメント準決勝〔佐藤秀司四段-丸山忠久四段〕観戦記「信念を通した飛車先の歩」より。

 丸山忠久君を初めて見たのは、昭和58年の奨励会入会試験の会場である。佐瀬八段の門下として奨励会の門を叩いた彼はまだ13歳の少年。千葉県木更津市という田舎育ちにしては滅法将棋の筋がよく受験者同士の一次予選を5勝1敗の好成績で楽々通過した。二次試験は奨励会員と三番指すというもので、一次の成績、筆記試験、面接と高得点だった少年は、1勝すれば合格間違いなしの状況だったが、現役奨励会員の厚い壁の前に3連敗で、あえなく涙を飲んだのだった。

 それでも「一次試験などの成績がよかったから、ひょっとしたら受かるかもしれないよ」と慰めを言う者がいたらしい。少年は来る日も来る日も日本将棋連盟からの「奨励会合格通知」を待った。そして・・・やや遅れて到着した日本将棋連盟からの封書を開けた少年の目に、真っ先に入った文字は「研修会発足のお知らせ」という意外なものだった。以上が丸山君に時折愚痴られる「奨励会不合格通知届かず事件」のあらましである。

 当時は空前の奨励会受験者ラッシュで受験者が80人を超えたことも多く、奨励会に入るのに二浪三浪するのは常識だった。そこで奨励会浪人するために地方から上京して生活しているという少年も多くなり、「1年に1度入会試験をやるだけで、プロ棋士を目指す彼らを放っておくのでは済まされないだろう」という声が大きくなることは自然なことだった。総務のお手伝いをすることになった私が、奨励会の予備機関たる「研修会」の構想を実現に移したのがこの頃で、だから研修会第1期生の丸山君の少年時代は昨日のことのように覚えているのだ。

(中略)

 最初に紹介したような事情で研修会に入ることになった丸山だが、ここでの修行は地方の将棋好きな少年が、当初描いていたほど心地よいものではなかったに違いない。

 月2回の研修会は午前9時の時間厳守である。木更津市は千葉県だが房総半島の中央部にあり、鉄道を使うとぐるっと回るため、将棋会館まで3時間近くの道のりを少年一人で月2回通わねばならなかったのだ。将棋を勝てばそんな苦労も吹き飛ぶが、同期のライバル達何人かがA級に上がり、勇んで奨励会6級に編入していったのに比べ、丸山はこの間中学生名人になるという喜びはあったもののB1組で足踏み。研修会での修行もついに1年が過ぎ、2度目の奨励会試験を受ける時期となってしまったのだ。

 奨励会試験において、研修会B1組は実力を認められて一次試験免除だった。続いて奨励会員との二次試験で今度は1勝2敗。今年こそは受かったと確信したのだが、この年はレベルの高い年で、また惜しくも次点で不合格だった。なんとも情けない顔で下を向く丸山に、私は「艱難汝を玉にす。最終目標は奨励会入会ではなく、名人なんだろう」と励ましたのだが、その一方で(丸山君は強いけど、勝負師としての運が足りないのかもしれないなあ)と思ったことをここで正直に告白する。

 そんな私の思いは杞憂だった。それから数ヵ月で丸山少年は研修会Aクラスに昇級し、奨励会6級への編入が認められたのだ。奨励会入りしてからの丸山は、それまでのうっぷんを晴らすかのように勝ちまくり、1年半ほどで初段に昇るという快速昇進を続けた。「若いときの苦労は買ってでもせよ」というが、丸山少年ほど苦労を自らの血肉にした例は世間にそう多くないのではないか。まさに「艱難は丸山を玉にした」のである。

(以下略)

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研修会の制度がなかったら、現在のプロ将棋界の地図は違ったものになっていたかもしれない。

藤井猛九段、三浦弘行九段なども、研修会を経験している。

研修会の創設は非常な絶妙手であったことがわかる。

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歴史上の「たられば」は、考えても仕方がないことだと古来より言われている。

「たられば」・・・直接は関係ないが、ふと気になったので、たらのレバーというものがあるのかどうか調べてみた。

すると、フランス、デンマークや東欧などでは珍味として珍重されているということが分かった。

たらのレバーをオイル漬けにしたものが主流のようだ。(コッドレバーと呼ばれている)

上の缶詰とは異なるものだが、中身は以下の通り。

あん肝のような雰囲気なのだろうか。

燻製にしたものをオイル漬けにしているものもある。

タラレバー自戦記→山めし礼讃 – 山料理 山ごはんレシピの記 –

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たらのレバーからは肝油も取れるという。

そういえば、私が小学生低学年の頃は、給食に肝油が出ていた。

「たられば」はあまり良い意味で用いられないが、タラレバーは活躍をしているようだ。

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